ENTERING ELECTROSPHERE──さまよえるプレイヤーの魂 エースコンバット3 エレクトロスフィア

警告.
決定的なネタバレはなるべく避けて書いてありますが、それ自体をテーマとしています。ご注意ください。

エースコンバット3 エレクトロスフィア(PS 1999年5月27日)ナムコ


エースコンバット3は面白くない。

という話をよく聞く。
空戦シーンでの映像表現はPSではトップレベルだし、新要素の視線移動も心地よい。
フライトシューティングゲームとしてもよくできている。
分量も十二分だ。
アニメパートのクオリティも低くはないだろう。
値段分の価値は十分にある。
ただし、プレイすると物足りなさや釈然としないものを感じるのだ。
それぞれの完成度は高いが、なんとなくいまいち面白味に欠ける。

個々のスタッフは優秀だったが、企画した人間やまとめ役の人間がうまくやらなかったからということか。
そうかもしれないが、そうともいいきれない。
エースコンバット+アニメという試み、そしてSFという設定がはずしていたからか。
おそらくそれは正しいが、それだけだともかぎらない。
なぜだろうか。


エースコンバット3は、前2作と異なり、アニメムービーを中心にストーリーが展開し、ポリゴンによる空戦を行っていくというスタイルをとっている。
そして、アニメ的でありながら、ドラゴンクエストのように主人公がいっさいしゃべらないというゲーム的手法を踏襲している。
主人公の風貌すらまったく描写されないところはむしろ主観視点アドベンチャーゲームに近い。


多くのゲームでは、画面の中に主人公キャラクターが描画されていて、
プレイヤーはそれに感情移入する。(このタイプのゲームを主人公キャラクター顕在型としよう。たとえばゼビウス、スーパーマリオブラザーズ、ファイナルファンタジーVIII、バーチャファイター、バイオハザードなど)
画面の主人公が自分の体(あるいは主人公の乗っている乗り物など)のように錯覚し、たとえばそれが殴られれば「痛い」と感じるような気さえすることがある。
それがどういう状態かを説明するにあたって、「魂」という言葉を借りよう。
プレイヤーは、テレビの前にコントローラーを持って座っている。
しかしプレイヤーの「魂」はプレイヤーの体から抜け、画面の中の主人公キャラクターの中に乗り移る。
そのような感じだ。
だから主人公の姿かたちはプレイヤーと異なっていても、プレイヤーは主人公を操作している実感を得られる。
この「魂」のことを、普段我々は「意識」と呼んでいる。


しかし、主人公キャラクターの姿が画面に表示されないゲームもある。
それが完全な一人称視点の表現──つまり(プレイヤーではなく)主人公が目にしている風景が描画されている──であり、かつ主人公がそのゲームの中の世界に確かに存在しているとするならば、
やはりプレイヤーの「魂」はゲーム世界に行っていることになる。
ただ、魂の憑代(よりしろ)となるべき主人公キャラクターをプレイヤーが見ることができないというだけだ。(これを主人公キャラクター潜在型とする。たとえばウィザードリィ、ポートピア連続殺人事件、リーサルエンフォーサーズ、ウイニングラン、DOOMなど)
これは前述の主人公キャラクター顕在型と、後述の主人公キャラクター不在型のゲームの中間であろう。主人公キャラクターが見えないという点から、主人公キャラクター不在型に近いと考えがちかもしれないが、主人公が世界に存在しているかどうかということに関していえば、主人公キャラクター顕在型に近いだろう。
たとえ魂の憑代(主人公)が見えなくても、やはり憑代はゲーム世界に存在しているのだ。
プレイヤーの魂はゲーム世界に入っていく必要がある。

そして残りは、主人公キャラクターが存在しないタイプ。
主人公と呼ぶべき存在が、あくまでテレビの前にいるプレイヤーそのものであるというものだ。(これを主人公キャラクター不在型とする。ファミリーベーシックの起動画面、ノエル、どこでもいっしょ、シーマンなど)
言い換えると、主人公にあたる人物は、モニターの中のゲーム世界にいるのではなくモニターの外にいるのだ。
このタイプのゲームは、モニターを何か他のものに見立てていることが多い。たとえば水槽だったり、テレビ電話の画面だったりする。
プレイヤーはプレイヤーのロールプレイをするのだ。
ゲーム世界ではないところから主人公がゲーム世界に干渉しているともいえるし、モニターの外にもゲーム世界が延長されているともいえるかもしれない。この件に関してはまた考える必要があると思うのだが、今回は深入りは避ける。


話を戻そう。エースコンバット3には、主人公キャラクターが画面にいっさい出てこない。
同僚などの人物が主人公に語りかけるが、主人公は返事すらしない。
戦闘と戦闘の間のアドベンチャーゲーム風の会話パートがあるが、 それはデータースワローと名づけられた未来のブラウザを介したテレビ電話(またはムービーメール)として表示される。作戦指令もその画面が用いられる。
ここではプレイヤーが見ているモニターが、主人公が見ているとされるブラウザの画面にたとえられている。明らかな主人公キャラクター不在型だ。ここまでは他のゲームでもよくある手法である。

だだし、そのブラウザ内では同僚は一方的にしゃべり、プレイヤーの介入する余地はまったくない。
多くのゲームは、長い台詞を聞かせる場合、途中で「ちゃんと聞いているか?」などの質問をし「はい・いいえ」などという選択肢で答えさせ、疎外感を感じはじめたプレイヤーをゲームの世界に引き戻す。
学校の授業中に眠りそうになったとたんに教師に指名されて、答えさせられるようなものだ。
ところが、エースコンバット3にはそれがない。
メッセージ送り(改ページ)すらも自動で行なわれ、プレイヤーは見て聞くこと以外、することが何一つない。
テレビ放送の映像をザッピングしていくムービーもあるが、それもまた自動で行なわれ、プレイヤーがチャンネルを変えることはできない。
ここでプレイヤーはゲームに対する介入度が下がったと感じる。いま主人公だとされているものは、プレイヤーの分身ではないと感じてしまう。これはファイナルファンタジーシリーズが批判されている理由のひとつとまったく同じといっていいだろう。

ゲームの核となる空戦シーンに移行する際も、機体に乗り込むというような描写はなく、そのままデータースワローから接続するようなイメージであり、そして不幸なことに(?)ディスクからの読み込みも体感時間ではほとんどゼロなので、プレイヤーは主人公キャラクター不在型の感覚を維持したまま空戦シーンにも突入してしまう。
空戦シーンでは、プレイヤーの思い通りに機体を操作することができるものの、たとえ敵であっても重要なキャラクターが乗る機体には攻撃を加えることができないなど、製作者側の都合を感じる。
また、空戦中の音楽は感情移入を抑える働きをする。1・2がどちらかというと熱いメロディだったのに対し、3は淡々としていて多くの場合メロディがない。空虚である。


このゲームのプレイヤーに許されているのは、実は主人公を動かすことではない。
主人公が動かしているとされている戦闘機を動かすことなのだ。
もちろん、前2作も主人公は描かれていなかった。あるいはそれを踏襲しているからなのかもしれない。
しかし戦闘機に乗り込んでいるという感覚が希薄な以上、それでは不十分だ。

エースコンバットシリーズは、主人公キャラクター潜在型であるべきだったのだ。
前2作では、プレイヤーの魂は、戦闘機のキャノピー(風防)の中にいるはずのパイロットへと乗り移っていた。
ところが、エースコンバット3は実質的に主人公キャラクター不在型なのだ。
プレイヤーの魂は、憑代を失っている。
戦闘機の中にいるべき憑代がいるという感覚がない。
プレイヤーの魂は、テレビの前のプレイヤーの中にとどまったままなのだ。

そう感じさせる必然が、実はこのゲームにはある。ある意味狙った演出であるかもしれない。
このゲームでは3つまで主人公の名前(ちなみに入力の際の初期状態はNemoとなっている)をセーブできるが、
ひとつの名前ですべて(5つ)のエンディングを見ると、最後に主人公の正体が明かされる。
それと関係がある。
これに衝撃を受けるか陳腐と受け取るかは人それぞれだろう。ここでの深い言及は避ける。
ひとつの名前で5通りのゲームをプレイする、つまりエースコンバット3の世界を異なるルートで5回プレイする。
これは、ゲーム製作者の用意したゲームを繰り返しプレイするひとりの人間、つまり我々、という比喩であることは疑いない。

エースコンバット3のゲームの世界は、未来という設定で、SFである。
戦闘機にキャノピーはない。パイロットは機体内の完全に閉鎖されたコクピットに入り、空を飛ぶ。
肉眼で空を見ることはない。視覚的聴覚的情報は直接神経に刺激を与えられることによって得ているらしい。
密閉されたコクピットで、パイロットは神経接続によって戦闘機を操縦する。
それはあたかも我々がゲームをプレイする際、実際に見える風景を見るのではなく、電子化された情報を視覚聴覚刺激を通じて得、指先がコントローラに接続されている感覚に近い。
エースコンバット3の、パイロットと戦闘機の関係は、プレイヤーとゲームとの関係と似ているのだ。

このゲームは、それ自体をゲームの比喩にしようとしているのかもしれない。
プレイヤーは、ふだんゲームに夢中になっているとき、ゲームという電脳空間──このゲームの用語で言えば、エレクトロスフィア──にしばしば没入する。つまり魂は電脳空間に行っている。
だから、エースコンバット3をプレイするプレイヤーの魂はすでに電脳空間に存在しているのだ、と製作者は考えたのかもしれない。
しかしその考えは正しいとはいえない。
プレイヤーの魂、意識がゲーム内の主人公のいるはずの位置に到達しないと、ゲームという電脳空間にプレイヤーが存在することにはならないのだ。
エースコンバット3の製作者は、そこを読み違えた。

電脳空間に存在するということの空しさ。このゲームはそれを語ってもいるようにも思える。
しかし、それを語ろうとしたためか、このゲームはプレイヤーをゲームの世界へいざなうことをやめてしまったのだ。

エンディングでは、プレイヤーの魂は──少なくとも主人公は確かに電脳空間に存在したことになっている。
だがそれは間違いだ。主人公を操作していたのはプレイヤーということだったはずだ。にもかかわらず、プレイヤーの魂はずっとモニターの前の人間の中にあった。
けっしてゲームという世界の中にはいなかった。ゲームがプレイヤーの侵入をあらゆる方法で阻止してしまったからである。
悲しき偶然か。それとも、アニメ的な発想で作られたために、ゲーム的な発想を失ってしまったのか。
いずれにせよ、結果としてそれはそのエンディングの意味すら不十分なものにしてしまった。プレイヤーに体験させなくてはならなかったのに、プレイヤーは体験者ではなく視聴者になってしまったのだ。
プレイヤーの魂は、プレイヤーの肉体という憑代にずっととどまったままモニターを見つめていた。 本当は、プレイヤーの魂をゲームという電脳空間に呼び込むべきだったにもかかわらず。

その事実によって、このゲームは決定的な部分での演出が無意味なものとなった。
そういった意味で、このエースコンバット3のゲームデザインは失敗だったといわざるをえないのだ。
ゆえに、エースコンバット3は道を誤った、という結果しか残せなかったのではないだろうか。

<余談>
繰り返し述べるが、個々の部分はよくできている。
特に真のエンディングを見た後に出現するシミュレーション(面セレクト)モードで難易度を上げて遊ぶと、ドッグファイトはかなり楽しい。
ムービーなど飛ばしてしまえ。音声になど耳を傾けるな。やはり釈然としないし、空戦以外のパートを作った人には申し訳ない気がするが、実際それがこのソフトをゲームとして楽しむコツである。
たしかに「さあ、あらかじめ仕組まれた物語など存在しない、ゲームを始めよう」というシミュレーションモードの提言の通りだ。
だが、結論がそれだけというのは寂しい。それは単なる前2作への回帰だ。3で何のために新しい試みをしたというのか。

なお、おそらくアニメファン、声優ファン的アプローチでこのゲームを楽しむ場合、上に書いたことはあまり関係ないかもしれない。

おそらく上に書いたプレイヤーの意識がキャラクターに宿る=魂という概念を利用したのが、 主人公は魂的存在でさまざまなキャラクターに乗り移るという設定のタイムツイストやヘラクレスの栄光IVなどだと思うのだが。

筆者はノエルもシーマンもまともにプレイしたことがないので、いままでに得た情報から不在型だと判断した。実際には主人公キャラクター不在型とはいえないかもしれない。

視点の切り替えによって主人公キャラクター潜在型と主人公キャラクター顕在型を併用しているゲームは多い。ドラゴンクエストにおいては移動は顕在型、戦闘は潜在型である。ポリゴン3Dゲームのうち何割かもそうなっており、もっとも典型的なのはメタルギアソリッドとゼルダの伝説時のオカリナだろう。

主人公がゲーム内にいるのかいないのかという点は、ゲームの設定に左右されるが、それはさほど厳密ではない。本質が優先される。たとえば主人公は見えないが明らかにゲームの世界にいるナイトトラップも、プレイ時の感覚はおそらく主人公キャラクター不在型のカテゴリに近いだろう。
なお、多くのパズルゲームなど、ゲームの世界に何らかのコミュニケーションの対象となる疑似生物あるいは疑似人格がまったく存在しないような場合、この主人公キャラクター*在型分類はする意味がない。

エースコンバット3の脚本(設定も?)担当の佐藤大はSFに造詣が深いそうだ。一方、筆者は一般にSFと呼ばれる小説を読んだことがないといっても過言ではない。エースコンバット3に登場する電脳空間とか電脳化というのはSFによくあるテーマらしいので、SFを知らない筆者の読みは浅いかもしれない。
なお、電脳化に関しては、佐藤大がやはり脚本を手がけた アニメ「カウボーイ・ビバップ」のSession 23 「ブレイン・スクラッチ」にも見ることができる。あまりアニメを見ない筆者であるが、このアニメは大好きであり、もっとも感銘を受けたのがこの23話だったということを付け加えておく。
(1999/8/25 綾茂勝太郎)

※執筆当時は「エースコンバット3」に批判的だった筆者だが、その後の「エースコンバット04」以降、望んでいた路線に復帰したため、今となっては「3は外伝としてあれはあれでよかった」という認識に変わっていることを付け加えておく。2020年6月25日追記

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