変えられない物語  ファイナルファンタジーVIII

警告!
この文章はファイナルファンタジーVIII(以下FF8)のいわゆる“ネタバレ”に属する内容が書かれているので、ご注意ください。

ファイナルファンタジーVIII(PS 1999/2/11) スクウェア

その発売前、FF8はふたりの主人公が登場するRPGだというふれこみだったと記憶している。
すなわち、スコールとラグナである。
だから筆者は、スコールとラグナを交互に操作して物語を進めて行くような内容を想像していたのだが、実際は必ずしもそうではなかったのは周知の通りである。
要するに、スコール編に対してラグナ編は極端に短いのだ。
それだけではなく、ラグナ編はスコール編の一部でしかない。スコールの意識がラグナに入り込み、スコールがラグナの体験を共有するというものだった。

スコールがラグナの意識に入り込んだ状態を、FF8ではどのように表現していたか。
次のようなやりとりがあった。

ラグナ …妖精さん、来てるみたいだ。
キロス ……妖精さん? ああ、そう言われればそうだな。
ラグナ じゃあ、今日の仕事は楽そうだな。
キロス バトルが楽しみだ。
ラグナ (いや、なんかいるのはわかるけど、なに言ってっかわかんねえんだよな……)

ラグナたちはスコールたちが意識に入ってきたことをおぼろげながらも認識し、スコールたちのことを“妖精さん”と呼ぶ。

後に現在のラグナがスコールたちと再会(面と向って会うのははじめてだが)したときの台詞は次のようなものだ。


ラグナ おお、わかったぜ、いよ~! 会いたかったぜ。妖精さんたち! おまえがオレのアタマの中に入ってたんだろ? エルオーネから聞いたぞ。アタマの中ザワザワして、おっ、なんかいるって感じよ。バトルになるとワケわかんねえパワーですっげえ戦い方ができちまうしよ。オレたちは、そんなときのことを妖精さんが来たって言ってたんだ。


これらの台詞はやや奇妙だ。なぜラグナはスコールの気配に気づかねばならなかったのだろう。
スコールが過去のラグナを操るだけなら、ラグナが“妖精さん”に気づく必要は必ずしもない。
あえて言及したということは、ラグナにとって“妖精さん”ことスコールの存在が何らかの意味を持っていると考えられる。
その答えのヒントが、次のやりとりの中にある。


ラグナ なんだなんだなんだ~! 最初のパトロールの帰り道はこっちと決めてるんだよな。オレは。
キロス 妖精さんの仕業か?
ラグナ ……かもしれない。


これは、ラグナの意図に反した行動をスコールが行ったという意味である。
このような状況はゲームではお馴染みだ。普通はやらないであろう行動をプレイヤーが主人公にやらせようとしたときに、それをフォローするために不自然なやりとりが出ることがある。

明らかに“妖精さん”とはゲームにおけるプレイヤーの隠喩であるということだ。
プレイヤーはゲーム内の主人公の習慣やモラル等に関係なく行動しがちである。もし主人公がプレイヤーの存在に気づけば、「この俺の妙な行動はプレイヤーの仕業だ」と言うかもしれない。
ラグナ編は各々が短く、まるでミニゲームのようだ。すなわち、ラグナ編とはゲーム内ゲーム、RPG内RPGなのである。
ラグナ編において、スコールとはプレイヤー(操作する者)であり、ラグナとはプレイヤーキャラクター/主人公(操作される者)という構図になっているのだ。

ゲーム内の設定においてはラグナはスコールが操作している(※1)が、ラグナは基本的には自分の意思で動いていると思っている。
ただ、普通のゲームと違うのは、ラグナ側で“見られている”ことをなんとなく感じていることだ。彼らはそれを“妖精さん”と呼んでいた。
ゲームのキャラクターがプレイヤーの存在に気づいてしまうとか、突然プレイヤーに向って語り出すといったメタな演出が一部のゲームでは稀に見られるが、ここでのラグナの“妖精さん”発言はそれに近い。(※2)

ゲームを進めて行くうちに、スコールが体験するラグナのエピソードは過去の出来事だということがわかってくる。
FFのシナリオライターは、FF7ですでに過去(記憶の中)をプレイするという行為をゲームに持ち込んだ。だから今回の“妖精さん”もその流れに位置付けることができる。
しかし、決定的に異なるのは、FF8における過去の体験は、過去を変えようとしてのものだった。過去を変えようとしたのはスコールであり、スコールを過去に送り込んだエルオーネだ。


エルオーネ 過去は変えられないって人は言う。でも、それでもやっぱり、可能性があるなら試してみたいじゃない?
スコール (過去を変えたいだって? 本気で言ってんのか? バカバカしい……) あんたがやっているのか!? あんたが『あっちの世界』に俺たちを連れていくのか!?


スコール おねえちゃん! エルオーネ! 俺は……。俺は……リノアの声が聞きたい。過去に行けばあんたに会える! うまくやれば過去を変えることだって! エルオーネ! エルオーネ! 聞こえるか?! 俺を過去に送り込め! リノアがこんなになったあの瞬間に! エルオーネ、答えてくれないのか……


エルオーネとスコールは過去のラグナの精神に入り込むことによって過去を変えようとしたが、結局過去は変えられないということに気づく。
FF7で、ある重要なキャラクターが物語の進行上、死んでしまい、「そのキャラクターを生き返らせる方法はないのか」という話題が当時ネットで盛んに交された(それは「ゲームにおいては主要キャラクターが生き返ることは珍しいことではない」という感覚が一部のプレイヤーたちにあったことの証明である)が、結局FF7の物語ではそのキャラクターが生き返ることはなかった。
FFのシナリオというのは、制作者があらかじめ用意したものであり、それ自体を変えることはできない。プレイヤーにできることといえば、戦闘をしたり、自分のペースで物語を進めたりするくらいで、物語そのものを変えることはできないのである。だから物語上、生き返らないキャラクターはけっして生き返らない。
FF8におけるラグナ編というRPG内RPGは、完全な一本道で、行けるところや順番は極めて限られている。いわゆるプレイヤーの自由度はきわめて低い。これはしばしば「決められた一本道を進むだけで自由度が低い」と批判されるFFというRPGの姿そのものではないか。
この一本道で自由度が低く、結局「変えられない過去」であるラグナ編の存在は、あるいはFFとはそういうゲームである、という制作者からのメッセージだったのかもしれない。


多くのゲーム、特にRPGのほとんどでは、プレイヤーは主人公キャラクターを操作することになる。
多くの場合、主人公キャラクターはプレイヤーの分身とされる。
が、主人公キャラクターはプレイヤーそのものなのではない。
主人公キャラクターの「役割を演じる」からロールプレイングゲームと呼ぶ、ということになっている。それは、あくまで「役割を演じているだけ」であるという証明でもある(言うまでもないが、playerとは演技者・役者という意味でもある)。
役者は役を演じているが、役は役者そのものではない。
台本があるとき(あるいは役柄が決まっているとき)、役者個人の性格や主義主張がそれに逆らうことはできない。
役に役者の個性がにじみ出ることはむしろ芝居に深みを与えるとはいえ、役者が台本にケチをつけ、自分の都合のよいように台本を書き換えようとするならば、その芝居は破綻する。

そのようなわけで我々は、たとえばFFシリーズのようなRPGをプレイするとき、あらかじめ割り振られた主人公の役割を演じ、台本通りに物語を進めてゆく。
主役とはいえ、俳優のひとりである我々は、脚本家や監督の期待通りに演技しなくてはならないのだ。
それだけではなく、FFでは、主人公を全て我々が演じることはできない。画面上の主人公はしばしば勝手に演技し、台本を進めてしまう。
逆に、プレイヤーである我々は、ときにおかしな行動をとり、台本の進行を妨げてしまうこともある。
つまり、たとえばけっして操作できない街の人々同様、主人公という独立した演技者が画面内におり、それがときどきプレイヤーによって操作可能になる程度、ということなのだ。
プレイヤーが操作できないとき、主人公は自らの意志に従い、台本通りの行動をする。しかし、プレイヤーが操作できるときには、主人公は行動の自由をプレイヤーに奪われてしまう。まるで洗脳されて操られているかのように。
しかしほとんどの場合、その後も主人公はプレイヤーが操作した部分も自分の意志で行動したものだと思い込んでしまう。洗脳は完璧なのだった。

ところが、ここにプレイヤーに操られていることを自覚してしまう主人公がいた。
ラグナは、“妖精さん”の存在に気づいてしまう。しかしラグナに与えられた物語を変えることは“妖精さん”にもできなかった。
FF7のプレイヤーたちが物語の上でそのキャラクターを生き返らせることができなかったように、FF8でスコールはラグナの妻レインが死ぬという過去を変えることはできなかった。
結局、プレイヤーであるスコールができたことは、すでに決まった物語(過去)をなぞって体験する程度のことでしかなかった。

我々は、過去を変えることができない。
ゲームのシナリオは過去に誰かが書いたものだ。変えることはできない(※3)。
FF8の“妖精さん”の比喩は、それを明確に語っている。
インタラクティブなメディアであるゲームといえど、シナリオがあるゲームは、その域を出ることが出来ない。
我々は悲観するしかないのだろうか。
過去は不変であると知ったスコールやエルオーネは、絶望しただけだっただろうか。そうではない。

エルオーネ 久しぶりね、スコール。
スコール ああ。
エルオーネ ごめんね、いろいろ。あなたたちを巻き込んで。
スコール いいんだ。あんたが何をしたかったのか、わかったから。オレたちは役に立ったのか?
エルオーネ もちろん。あなたたちは私の目になってくれた。あなたたちのおかげで、私がどんなに愛されていたかわかった。過去は変えられなかったけど、それを確認できただけでじゅうぶん。本当にありがとう。
スコール もういい。そのかわり頼みがある。過去は変えられないって言ったな?
エルオーネ 知らなかった過去を知ることはできる。過去を知ることで、それまでとは違った今が見えてくる。変わるのは自分。過去の出来事ではないの。

過去を受け入れた彼らは、その中でそれぞれ何かに気づき、それがその後の行動・人生に何らかの影響を与えた。

FFに限らず多くの物語を有したゲームは、制作者の提供する物語を楽しむことになる。だから、そうしたゲームの場合、当然のことながら、逆に提供されない物語をそのゲームの中で楽しむことはできない。
しかしそれを嘆く必要はない。
まず提供された物語を素直に楽しめばよい。
そしてその物語の中で何かに気づいたり何かを感じたら(ほんの些細なことでもいい)、そのゲームでの体験はプレイヤーである我々にとって、かけがえのない何かになるはずである。


(2001/7/8 綾茂勝太郎)

※1 ラグナを操作するスコールをさらに操作しているのはプレイヤーなので、三重構造になっている(もっと言うと、プレイヤーをその状態に仕向けたのは制作者なのであるいは四重構造)のだが、ここではそれは省こう。
※2 戦闘でラグナたちが使えないはずのGFこと召還獣や魔法などが使えるのは、GFが精神的な存在であり(ゆえにエルオーネは過去に送ることができる)、魔法などのコマンドもすべてGFをジャンクションしなければ使えないという設定と関係させている。
GFをジャンクションしなければ各種戦闘コマンドが使用できないという設定はこのラグナ編の辻褄合わせのためであるとも考えられるが……。
※3 たとえマルチエンディングのゲームで、プレイヤーが物語の方向性を選ぶことができたとしても、それはやはりシナリオライターが過去に作ったシナリオのひとつでしかない。

* 本稿は結局のところ『ゼルダの伝説 夢をみる島』について語ったこととほとんど同じような内容となった。スコールたちにとってラグナ編はやはり「夢」のかたちをとって現れていたことを最後に付け加えておく。
ゲーム中の台詞の引用部分は、書籍『ファイナルファンタジーVIII メモリアルアルバム"Wish you were here."』デジキューブ 1999 から引用した。

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