叶わない夢の歌  ファイナルファンタジーX

警告!
この文章は『ファイナルファンタジー10』、さらに『ファイナルファンタジー9』のいわゆる“ネタバレ”に属する内容が書かれているので、ご注意ください。

ファイナルファンタジーX(PS2 2001/7/19) スクウェア


ファイナルファンタジーシリーズによく登場する要素として、「自己犠牲」が挙げられる。
ほぼ毎回、仲間の誰かが(ときには何人も)物語を盛り上げるために死ぬが、
仲間の多くは「殺される」よりは何らかの目的のため(多くは主人公を助けるため)に「自ら死を選ぶ」のだ。
そこでは、自己犠牲を選んだ悲壮さと、死んでしまった命の儚さをプレイヤーに感じさせる。

自己犠牲ではないが、『9』ではプレイヤーキャラクター(プレイヤーが主として操作する人物)であるジタンの仲間の黒魔道士ビビが「作られた存在」であり、寿命も極端に短いことが判明し、その命の儚さがプレイヤーの同情を誘う演出があった。
ところがその後に、ジタンもビビ同様に「作られた存在」であることが判明する。
主人公に感情移入していたプレイヤーならば、ビビのことを同情していた自分さえも、ビビと同様に同情されるべき存在であったことに愕然とするのである。

この趣向は、『10』でも使われている。
プレイヤーキャラクターのティーダは、世界の災厄であるシンを倒そうという召喚士ユウナに協力するが、実はユウナの自己犠牲がなければシンは倒せないことを知って葛藤する。
それを最初から知りながら自らの命を犠牲にし人々のためにシンを倒そうとするユウナの健気さと、その悲壮な覚悟に、ティーダとプレイヤーは心打たれるのだ。

ところがその後、ユウナの自己犠牲は問題の根本的な解決にはならず、破滅の先送りにしかならないことが判明し、シンを本当の意味で倒す方法を探す旅がはじまる。その方法がわかれば、ユウナは死なずにすむのだった。そしてその方法は明らかとなる。

と、ここで終われば単なるハッピーエンドなのだが、そうはならない。
一方のティーダの存在が「夢」(!)であったことが判明し、シンを倒せばティーダの存在も消えてしまうことが判明する。

『9』で、それまでビビに同情していたプレイヤー≒ジタンが、「俺もかよ!」と思ったように、
『10』では、それまでユウナに同情していたプレイヤー≒ティーダが、「俺がかよ!」と思うことになるのだ。

つまり、プレイヤーレベルでの認識は、物語を追うにしたがって、次のように変化する。

1.シンを倒して世界を救う→ハッピーエンド
    ↓
2.シンを倒して世界を救う→ユウナの死
    ↓
3.シンを倒して世界を救う→ティーダの消滅

このヒロイン→プレイヤーキャラクターという、自己犠牲主体のすり替えが、『10』の物語の核のひとつであることは明らかだ。

さて、『10』には「素敵だね」という主題歌がある(作詞はシナリオの野島一成)。そのサビの部分の歌詞はこうだ。

素敵だね
二人手をとり 歩けたなら
行きたいよ
キミの街 家 胸の中
発売前後にはCMでも大量に流れたので、多くの人の耳に残っているはずである。ゲームのプレイ前には恋愛を主題とした、ごく普通の歌詞だと思うだろう。
しかしゲームを始めると、この歌詞の解釈は物語内容をそのまま反映しているように聞こえてくる。
すなわち、ヒロインであるユウナの心情を詠ったものであると。

1.シンを倒して世界を救う→ハッピーエンド
この状態では、ティーダは異世界あるいは過去から来た人間のように示唆されている。
シンを倒した後自分の街・家に遊びに来いと、ティーダはユウナを誘い、彼女は(自己犠牲のことは隠し)了承する。

素敵だね
二人手をとり 歩けたなら
行きたいよ
キミの街 家 胸の中
シンを倒さねばならないという宿命を背負ってしまったユウナが、ティーダとともにシンを倒し、やっと普通の娘のようにティーダの街へ遊びに行き、その青春を獲得する、といった明るい将来が、この段階でこの歌詞のこの部分を聴いたプレイヤーには、喚起される。

ところが、ユウナの自己犠牲の件が知らされ、
2.シンを倒して世界を救う→ユウナの死
の段階となると、この歌詞の意味は一変する。

一刻も早くシンを倒さねばならない。その前にユウナがティーダの家に遊びに行くことなど許されないのだ。
だがシンを倒すためには、ユウナは死ななければならない。

素敵だね
二人手をとり 歩けたなら
行きたいよ
キミの街 家 胸の中
この歌詞は、自らの死によって決して成就されることはないと知りながら、叶わぬ夢を語るユウナの歌となる。(ゲーム中、唯一主題歌が流れるムービーはここである)

しかしこの歌詞の意味はこれで終わらない。最後に、
3.シンを倒して世界を救う→ティーダの消滅
という結末を迎えるエンディングでまた、この歌が流れる。

シンと化した父ジェクトを倒した後、ティーダは透け、彼に触れようとしたユウナは、その体を通り抜けてしまう。

素敵だね
二人手をとり 歩けたなら
行きたいよ
キミの街 家 胸の中
ユウナは死ななくてすんだが、ティーダの街ザナルカンドは夢であり、実在しない。結局、ユウナがそこへ行くことは叶わない。

ティーダは消滅し、独り残されたユウナはもうティーダの手をとることはできない。
ティーダの家があるザナルカンドの街は幻だった。
ティーダはユウナを胸に抱きながら消えていく。ユウナはティーダの胸の中で彼が消えていくのを感じる。

「素敵だね」の歌詞は、ゲーム中一度も変わることはない。
しかしプレイヤーの解釈レベルにおいて、ゲームの進行に合わせて、その意味をその都度変質させていくのである。

いずれにせよ、叶わぬ夢の歌でしかなかったのだが。


(2002/10/21 綾茂勝太郎)

文中、本来ローマ数字で表記すべきタイトル番号を、あえて算用数字で表記している。

参考までに、ファイナルファンタジー死亡者リストへのリンク。もちろんほぼシリーズ全作品のネタバレなので注意。
http://www.hi-ho.ne.jp/hirose/ff/death.htm
http://www2.off.ne.jp/~dora/fifa/fifadead.htm (リンク先消失 2020/06/25追記)
これらのリストにはないが、「自己犠牲を選び、死んだと思ったが実は生きていた」というキャラクターも多い。

『10』のある要素が、『ゼルダの伝説 夢をみる島』と同様なのは以前に書いた通り(ネタバレ)。

『10』はわずかの例外を除いて、
ゲームの異邦人であるプレイヤー ≒ ゲームの舞台であるスピラの異邦人ティーダ
という形式になっている(これも以前書いた話だ)。その意味では、ティーダ消滅後のユウナの演説は、ティーダの視点からは見られないシーンなので一貫性を欠くのだが、それ以上に伝えたいメッセージだったのだろう。

本文とは全く関係ないが、ティーダは沖縄の言葉で太陽を意味するらしい。『7』のクラウド、『8』のスコール、『10』のティーダで、雲、雨、太陽となっているのがなかなか憎い。(『9』のシナリオは違う人)

「叶わぬ夢の歌でしかなかったのだが。」で結んだ。現時点ではこれが「結論」だが、「単なる過去形」になる可能性も出てきた。
それにしても『X-2』(テンツー)というタイトルはいかがなものか。

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