ゲームとは何か──「夢をみる島」は語りかける ゼルダの伝説 夢をみる島(3)
警告!
この文章は「ゼルダの伝説 夢をみる島」または「ゼルダの伝説 夢をみる島DX」の最大のネタバレが含まれてますので、クリアしていない方はご注意ください。
ゼルダの伝説 夢をみる島(ゲームボーイ対応:1993/6/6)、ゼルダの伝説 夢をみる島DX(ゲームボーイカラー対応:1998/12/12)任天堂
「夢をみる島」は、RPGの勇者と魔王の概念を逆転した設定となっており、
その宿命を背負った主人公という設定によって、プレイヤーを苦悩させうることは前回述べた。
今回は、その設定、そのエンディングの意味について考えてみる。
エンディングで「かぜのさかな」は、見事使命を果たした「目覚めの使者」である主人公に次のように語りかける。
だが、ユメは さめるもの
それが、しぜんのさだめなのだ。
わたしが、めざめると、
コホリントじまはきえるだろう
しかし、このしまの おもいでは
げんじつとして、こころにのこる。
そして...キミはいつか
このしまを おもいだすだろう。
この おもいでこそ、ほんとうの
ユメのせかいでは、ないだろうか
この「夢をみる島」のエンディングには、いくつも解釈が可能であろう。
たとえば、この世もまた夢である、という解釈が成り立つ。
もともと、マリンたちはかぜのさかなの夢の存在だったのだから、存在しなかったものだと納得することも不可能ではない。しかし、「胡蝶の夢」の故事(※1)の通り、この世こそが夢であるともいえる。
そういった意味では、マリンたちが存在しなかったということにはならない。
あの世界が夢であったのか、現実であったのかは、さほど大きな意味は持たない。どちらも同じ思い出として残るから、と。
ただ、ここではもうひとつの解釈を紹介する。(※2)
それは、「夢」が「ゲーム」そのもののメタファーであるという指摘だ。
「夢をみる島」では、電源を入れると、いかだに乗った主人公が海で嵐に遭い、難破する一枚絵のデモビジュアルが表示される。
画面は一変し、ゲーム中の画面と同じキャラクタが表示され、そこが島であることが示される。次に、女の子(マリン)が主人公を見つける様子が表示される。その主人公とマリンは、一枚絵ビジュアルではなく、すでにゲーム中と同じキャラクタとなっている。
そして画面は上にスクロールし、そしてその島の山の頂には巨大な卵があることをプレイヤーに見せ、タイトルロゴが表示される。(※3)
ゼルダシリーズにおいて一枚絵ビジュアルシーンは特異な演出であるが、それには理由がある。
エンディングの夢から覚めた主人公が空を飛んでいる「かぜのさかな」を目撃するというシーンにもまた、一枚絵ビジュアルシーンが使用されているのだ。
これが意味するところは、プレイヤーが操作するゲーム中の主人公があくまで夢の中の世界の存在であり、“現実”の世界とは違うものであるとはっきり区別をするために、主人公の描写方法を変えているのだ。
現実世界の主人公=ビジュアルシーン・現実的な頭身
夢の世界の主人公=通常のゲーム画面・二頭身
このように表現方法を変えることによって、明確に夢と現実を描き分けている。
誰でも、プロローグ部分とエンディング部分が同じ世界だとわかるし、ゲーム中の世界は別の世界だと理解できるのだ。
一歩進めて、プレイヤーが操作する「ゲームな部分」である、ふだんのゲーム画面(マップパーツで構成されたゲームらしい画面)を夢とし、
プレイヤーが操作できない部分の画面(一枚絵)を現実としているのには、
「夢をみる島」において夢の世界がゲームの隠喩であることを示唆しているともとれる。
「島」は、「かぜのさかな」が作り出した夢の世界であり、主人公にとって現実ではなかった。しかし、主人公は島の人々と出会ったし、島に存在もしていた。
同様に、「ゲーム」は、ゲーム製作者が創造したもので、プレイヤーにとって現実ではないものの、プレイヤーはゲームのキャラクターと会話するし、プレイヤーの分身はゲームの中にも存在しているのである。
ここに、相似が見出せる。
ほとんどのゲームにおいて、「クリアする」ということは、ふたつの意味がある。ひとつは、「達成」。もうひとつは、「終了」。
達成、すなわちエンディングを迎えることは、同時にそのゲームとの別れを意味する。(※4)
たとえば魔王を倒してしまうと、その世界を守ったことにはなるが、同時にその世界に終わりをもたらしてしまったことにもなるのだ。
ただ、ゲームを終えたプレイヤーは、そのゲームをはじめる前のプレイヤーとは同一ではない。
プレイヤーはゲームをプレイしていたとき、つまりゲームの世界に存在していたときの記憶、思い出を持つようになった。
そういう意味で、ゲームそのものがなくなってしまったわけではけっしてない。
ゲームクリアは、必ずしも喪失を意味せず、ゲームはプレイヤーの心に残るのだ。
「かぜのさかな」は、プレイヤーである我々にそう語りかけているのかもしれない。
マリンの最後の台詞
りんく いつか このしま
でてっちゃうんだよね....
なんとなく..わかるの...
りんく が いっちゃうこと。
このことばは、主人公のみならずプレイヤーに対しても投げかけられたものなのである。
その意味するところは、プレイヤーがゲームを終了(クリア)してしまうことにほかならない。
..わたしのこと、わすれないでね
わすれたら、しょうちしないから!
マリンはそう言った。
しかし、このしまの おもいでは
げんじつとして、こころにのこる。
そして...キミはいつか
このしまを おもいだすだろう。
この おもいでこそ、ほんとうの
ユメのせかいでは、ないだろうか
「かぜのさかな」も、そう言った。
我々は、プレイしたゲームの数だけ、別の人生を体験してきた。
あなたは、まだ、覚えているだろうか? 昔熱中したゲームを。その世界を。その冒険を。そのキャラクターたちを。その感動を。
あなたがゲームで作ってきた思い出は、一生の宝物かもしれない。
※1 「胡蝶の夢(こちょうのゆめ)」とは、広辞苑によると、
[荘子斉物論](荘子が夢で胡蝶になって楽しみ、自分と蝶との区別を忘れたという故事から) 現実と夢の区別がつかないこと。自他を分たぬ境地。また、人生のはかなさにたとえる。蝶夢。
とある。文中では、いま現実だと思っているこの世こそが夢であり、夢であったと思っていた世界こそ現実なのかもしれない、という意で挙げた。
※2 「ゲームのメタファー」という指摘自体は、1997年12月にある方からのメールにおいて指摘されるまで筆者は気づかなかった。以下に、その該当箇所の全文を引用する(改行箇所は一部変えてある)。
ゼル伝は、クリアしたあとボーゼンとしていて、後になればなるほど、いろいろ考えるゲームでした。
私、あのゲームのテーマは”ゲーム”そのものだと思っています。
”~思い出はこころに留まり続ける、それこそがほんとうの現実ではないだろうか。”
ちょっとうろおぼえなんですが、現実とゲームの関係について語っているようにしか思えません。
ゲームのスタンス、、についてでしょうか。夢の世界には終わりがある、
でも、それも無駄ではないことなんだよ、と。
そして、それを現実に反映して生きる。私たちが生きてることがそのゲーム(幻)が存在した証。
この指摘を、筆者がふくらませたのが本稿である。示唆を与えてくださったこの方に感謝する。
なお、ゲームというメタファーをテーマとしたものに「MOON」がある。割と露骨なので、暗喩というよりは明喩といえるかもしれないが。これも機会があれば述べたい。
※3 余談になるが、ゲームをはじめたときに一度だけ出るのではなく、これを何度も見せるのには理由がある。これは、「最初に主人公は難破した」ということを忘れさせないためである。これを忘れていては、エンディングで、なぜ主人公は海で木切れにつかまっているのか、ということがわからない。
※4 もう一度最初や途中からやるということもできるが、それは単なる繰り返しかパラレルワールドにすぎず、クリア後の世界はほとんどの場合存在しないか、時が進むことはない。クリア後の世界を楽しめる場合でも、ほとんどの場合、その世界の時は止まっているはずである。
※ なお、本稿はモノクロの初版「夢をみる島」を主たる対象としているため、カラーでリメイクされた「夢をみる島DX」では一部異なる部分もある。
(1999/6/11 綾茂勝太郎)
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