因果律の物語 街

(この文章は、ネタバレをしないように書かれています。未プレイの方も安心してお読みください)

 街(SS版:1998/1/22)、街~運命の交差点~(PS版:1999/1/29)チュンソフト

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」という映画を見たことがある方は多いだろう。
いわゆるタイムトラベルもので、タイムマシンに乗って生まれる前の時代に行った主人公が、 若き日の自分の父親と母親の恋路を邪魔してしまい、父と母が結婚しなくなり自分が生まれなくなってしまいそうになる話である。
タイムトラベルによって「過去を変えると未来が変ってしまう」とか、あるいは意図的に「未来のために過去を修正する」という話は、
「ドラえもん」などでも多用されているので、日本人にはかなりお馴染みであろう。

「街」は、話の内容としてはまったくタイムトラベルものではない。
しかし、それはゲームとしては上記のようなタイムトラベルものと同じテーマを表現したものであるともいえる。
キーワードは、「因果」だ。


人は、人生においては大きな決断、日常においては小さな決断を絶えず行って生きている。
だから「もし、あのとき、別の決断をしていたら──」となにかにつけ思うものだ。
ただ、過去に戻って決断し直すことはけっしてできない。
「大きなつづらか、小さなつづらのどちらかをあげよう」と言われたとき、どちらかを選ぶしかなく、片方を選んだ場合、もうひとつのつづらの中身は永遠にわからないのだ。

しかし、ゲームで同様に「大きなつづらか、小さなつづらのどちらかをあげよう」と言われた場合、あなたはどうするだろうか。
もちろん、まずはどちらかひとつを選ぶだろう。
でも、可能であればその後でリセットしてロードして、もう一方の「つづら」の中身を確かめたりしないだろうか。
ゲームは、人生と違って、やり直しがきく。
別の可能性を確かめられるのである。

ゲームの本質のひとつは、シミュレーションである。
それはシミュレーションゲームと呼ばれているものにかぎらない。たいていのゲームは、その架空世界の住人である主人公の人生の一部分をシミュレートしているものなのだ。
シミュレーションだから、別の可能性も探れるし、何度でもできる。気に入らない結果になったらやり直せるのだ。


「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざがある。(※1)
誰かのある行動が、想像もできない他のものに間接的に影響を与えることがあるということを、昔から人は知っていた。
取るに足りない些細な事件が、歴史に残る大事件へとたまたま発展することもありうる。
こうしたことは現実にたくさん起きているはずなのだ。
しかし、ほとんどの場合、我々はそれを確認するすべをもたない。
「歴史に『もしも』は禁句」というのは、そういう意味だ。

もしも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のように過去に行くことができれば、原因を変えて、別の結果を確かめることができる。
残念ながらこうしたタイムマシンは現実に存在しないが、シミュレーションであるゲームは、それに近いことが可能なのだ。
ゲームという媒体を使って日常に埋没している因果を浮き彫りにしたのが「街」にほかならない。


とはいえ、無数に転がっている因果をすべて計算してシミュレートすることは現在の技術ではかなり難しいだろう。
物理学的予測ならともかく、そこに意思を持った存在である“人間”を持ち込むのは至難の業であると思われる。
仮にできたとしても、それがそのままエンターテインメントになるかというと、そうとはかぎらない。
そこで、「街」ではサウンドノベルというフォーマットを利用した。
サウンドノベルと呼ばれるゲームシステムは、その字義に引きずられて、文字と音響効果によって雰囲気を盛り上げるというものであると思われがちである。
しかしサウンドノベルの可能性はそれだけではない。プレイヤーは普段は小説を読むように傍観し、ところどころで主人公の行動を選んでストーリーを変化させて楽しむという要素がある。それを「街」は巧みに利用している。
サウンドノベルでは、いわゆる通常のアドベンチャーゲームより行動選択の機会はずっと少ない。
主人公の行動の自由度は無限ではなく、極めて制限されている。
だから、あらかじめゲーム製作者は主人公の行動に対するその結果をそれぞれ既定することができるのだ。(※2)
また、「街」のビジュアルは決してサウンドノベル前二作のような挿し絵ではない。実写を使用しており、それはアニメ絵などより因果の現実味を強く感じさせる。(※3)


ただ、「街」は単に因果関係の実験を楽しむだけのゲームではない。
そこには明確なストーリーがある。
「街」は、マルチエンディングではない。(†1)バッドエンドは100個以上存在するが、本当のエンディングはひとつだけで、「正解」が存在する。
プレイヤーがすべきことは、相互に影響しあう8人の主人公の行動をうまく調整し、ストーリーの途中に仕掛けられたバッドエンドを回避して8人全員にエンディングを迎えさせることだ。
また、真のエンディングを目指すことだけが楽しみではない。同時に、8人の行動を調整して、他の主人公への影響(バッドエンド)を見ること。これは、寄り道的楽しさである。
この調整の楽しみはパズル的ともいえる。さながら、因果というピースを使って、ジグソーパズルを完成させていくような感覚を味わえる。


8人の行動を調整するには、物語の時間を自由に移動し、過去に一度選んだ選択肢を正しいものへと訂正するのだ。
「街」登場人物は誰もタイムスリップできないが、傍観者であり指示者であるプレイヤーのみはタイムスリップが可能なのである。過去を改ざんできる。いや、過去を修正することこそプレイヤーの役目だ。
うまく全員を調整しないと、必ず脱落者(バッドエンドにはまって物語が進まない主人公)が出てくる。

だから、プレイヤーは8人の主人公を同時進行で進めていく必要がある。
主人公から別の主人公へのこの視点の移動を「ザッピング」と呼ぶ(※4)。
これは、「新・鬼ヶ島」などにおいてみられたゲーム中の操作キャラクタ変更コマンド「ひとかえる」と根は同じものであるが、その意味は多少異なる。
「街」は、ひとつの事件を複数人数の視点からずっと見ていくという話ではないし、まして主人公どうしが協力して何かをするわけではない。
2人セットでひとつのシナリオを形成している主人公を除けば、ある主人公が別の主人公と知り合いになることはほとんどない。

8人の主人公は、同じ街のそれぞれ別の場所で別の目的を持って生活している。
それぞれの人生が、ときどき重なるだけなのだ。主人公どうしが正対することはまれで、それも一瞬だけ。会話を交すこともほとんどない。
したがって、ある主人公が他の主人公に直接的な影響を与えることはあまりなく、
「風が吹けば桶屋が儲かる」方式に、間接的に影響を与えていることがほとんどだ。
だから、ある主人公の行動を修正すると、数時間後の別の主人公のバッドエンドが回避できたりする。
因果は、その場ですぐに起こる現象ばかりではない。殊に間接的な因果は、時間を経て成就される。
そこが、過去にけっしてさかのぼることのない他の複数主人公ゲームと決定的に違うところである。
それをゲームとして可能にしたのは、やはりサウンドノベルというシステムだった。過去の出来事はすでにプレイヤーが読んだ文章として存在しているので、検索しやすく思い出しやすいのだ。ザッピングするにはこの上ない。

「街」は、何度でもやり直しがきく。条件を満たさないと未来へは進めないことはあるが、過去へは無条件で戻ることができる。
何回でも、「別のつづらの中身」を確かめることができるのだ。
その楽しみ。「街」はむしろ、従来のゲームにおいて本来「ずるい方法」であったかもしれない「リセットしてやり直す」という行為までも見事にゲーム性に取り込んでいるのである。


「街」の主人公たちは、いずれも一癖ある人物で、とっつきが悪いと感じるプレイヤーも多いだろう。
ただ、必ずしもプレイヤーは主人公になりきる必要はない。
というより、なりきることは難しい。プレイヤーは第一に読者であり、視聴者なのだ。
主人公たちは、それぞれが独自の性格に基づいて行動しているので、プレイヤーがその性格を変えることはできない。
プレイヤーはあくまで、運命の女神として、彼らを導くのみだ。
しかし、エンディングを迎えるとき、プレイヤーは単なる読者として主人公たちを見ているだけとはかぎらない。
プレイヤーは、5日間の8人をずっと見つめてきた。ずっと導いてきた。
変な8人でも、苦楽をともにしてきた8人。出来の悪い子ほど可愛い。
ゲーム製作者が用意した彼らの結末が、ハッピーエンドなら自分のことのように喜び、また悲劇的結末であればその運命を哀れむようになっている場合も多いのではないだろうか。


ゲームでなければ読めない物語がある。ゲームでなければ味わえない体験がある。
そのひとつの答えが、この「街」である。


※1 意味は、「広辞苑」によると、次の通り。
風が吹けば桶屋が儲かる
風が吹くと砂ぼこりが出て盲人がふえ、盲人は三味線をひくのでそれに張る猫の皮が必要で猫が減り、そのため鼠がふえて桶をかじるので桶屋が繁盛する。思わぬ結果が生じる、あるいは、あてにならぬ期待をすることのたとえ。「大風が吹けば桶屋が喜ぶ」「風が吹けば箱屋が儲かる」などとも。

※2 バッドエンドへいたる分岐ストーリーはすぐに終了することが多いとはいえ、多数の因果の設計・管理や、辻褄合わせには相当の労力が必要だったはずだ。

※3 実写の効能はまだまだある。たとえば、役者の演技等の映像と文字表現の両立によって、相互に不足しがちな部分を補完しあっている。これも他のメディアにはあまり見られない、ゲームならではの表現であるともいえる。

※4 厳密には、同主人公の過去や未来に飛ぶこともザッピングと呼んでいる。
ザッピングという趣向をゲームに持ち込んだもののひとつに、「ナイトトラップ」がある。これは家という限定された空間に複数配置されたテレビカメラの映像をリアルタイムで切り替え、再生される実写ムービーによって状況を判断し行動を決定するというシステムであった。自由な視点変更という点では「街」と共通するが、監視対象が人間中心ではなく風景中心である点、リアルタイムで後戻りはできない点、そしてプレイヤーの関与がなくとも話は進む(ゲームオーバーになる)点などで異なる。とはいえ、「街」の源流のひとつであるとも定義できよう。

†1 バッドエンドは失敗という意味でのゲームオーバーと同義である(どんなバッドエンドか見る楽しみがあるという意味では別だが)。いわゆるマルチエンディングのゲームでは、達成というクリアが何種類も用意されているものである。「街」は達成を意味するエンディングは1つだけであり、バッドエンドは途中で失敗を意味するゲームオーバーなのである。

※この文章は、以前ある「街」関連ページに筆者が寄稿したものを大幅に再構成したものである。
なお、筆者はサターン版のみしかプレイしていないので、PS版のことはよく知らない。ご了承いただきたい。

(1999/6/13 綾茂勝太郎)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?