コミュニケーションの醍醐味 どこでもいっしょ

この文章は、ネタバレをしないように書かれています。未プレイの方も安心してお読みください)

どこでもいっしょ
PS(ポケットステーション専用):1999/7/22 ソニー・コンピュータエンタテインメント

ポケットステーション用ソフト「どこでもいっしょ」のパッケージには「お話しゲーム」と書かれている。
お話しゲームという呼称の意味は、ポケピと呼ばれるキャラクターと会話を楽しむゲームだということだと考えてよいだろう。

詳しいゲーム内容に関しては他で説明されているのでここでは省くが、
ゲームでプレイヤーがすることは、基本的にはふたつ。
ポケピに単語を教えることと、ポケピが話している内容を読むことだ。
つまり、「言葉を教える」「言葉を聞く」ということになる。
いずれも、ひとりでは成立しない行為だ。ポケピとプレイヤーの二者がいるから、そこにコミュニケーションが生まれる。それも、言葉を道具としたコミュニケーションが。

「言葉を教える」ことにより、ポケピのボキャブラリーにプレイヤーの趣味や生活が反映されていく。
ポケピは覚えた語彙を使って話をするので、「言葉を聞く」と、その内容にはプレイヤーの趣味や生活が反映されている。
その入力と出力の楽しみ。そこに生まれるコミュニケーション。
これがこのゲームのすべてだ。


というのは、ひとりで遊ぶときの話だ。
このゲームが演出する楽しみはそれだけではない。
やはり言葉を利用したコミュニケーションなのだが、プレイヤーとポケピとのコミュニケーションではない。

このゲームがもつもうひとつの重要な要素、それは他のプレイヤーとのコミュニケーションだ。
赤外線通信機能を利用した、他のプレイヤーとの「しりとり」ゲーム。
プレイヤーどうしが、お互いのポケステを向かい合わせ、ポケピに覚えさせた単語でしりとり勝負をさせる。

とはいえ、この勝負はたとえば格闘ゲームやレースゲームなどでいうところの対戦プレイとは異なる。
このしりとりのもっとも楽しいところは、実は勝敗を競うことではない。
相手のポケピの語彙をもらうことでもない。
相手の使ってくる言葉を見ることだ。

前述のようにポケピの語彙にはプレイヤーの趣味などが反映される。
よって、ポケピの語彙はプレイヤーによってまったく異なる。
しりとりは異なる語彙に遭遇する機会だ。

自分が覚えさせた語彙を相手にさらけ出すこと。
これは自分の趣味を相手にアピールしていることと等しい。

人は日頃、いろいろな方法で自分を演出している。
服装や髪型やアクセサリーなどのファッション、持ち物、車、家、学校、仕事など──あらゆる要素で「私はこういう人間です」と自分の趣味や価値をアピールする。
これらもコミュニケーションの一種だ。
「しりとり」で、自分が教えた単語を相手に見せることは、これに近い。

自分が教えた語彙を相手に見せることは、自分の個性のアピールでもあるのだ。
そして同時に、相手の個性のアピールを受け取ることでもある。

このゲームの「しりとり」という行為は、自分の個性を相手に示し、相手の個性を知ることなのだ。
ポケステがプレイヤーを代弁する。ポケステという鏡にプレイヤーが映る。
ここに、かつてなかったコミュニケーションが生まれる。

「どこでもいっしょ」は、「言葉を道具としてコミュニケーションを行う」という行為をさまざまな方法で追求し、楽しみに昇華した画期的なゲームなのだ。


<余談>
ネットで発言したり、ホームページを作ったりして自己表現することがおそらくもっとも新しい、文字を用いた個性のアピールの仕方で、コミュニケーションのかたちだといえるかもしれない。「どこでもいっしょ」の「しりとり」は、これに似ているといえる。

ゲームセンターの格闘ゲームの対戦台において、卑怯な勝ち方はしないようにしているプレイヤーが多いそうだが、それは自分の戦い方が個性のアピールで、対戦そのものがコミュニケーションだからだろう。上で「格闘ゲームやレースゲームなどでいうところの対戦プレイとは異なる」と書いたが、そういう意味では根は同じなのかもしれない。

(1999/8/4 綾茂勝太郎)
筒井康隆だったと思うが、自分と関係していた名詞を次々と挙げていき、それをもって自分史としたという作品があるそうである(筆者は未読であるが)。「どこでもいっしょ」のしりとりで、入力した名詞をしりとりを通じて見せ合うというのは、この筒井の自分史をそれぞれ書いて見せ合うこととほぼ同義である。上の文章の結論部分も、そういえばひとことですんだのだが、例によって筆者の狭い教養では筒井のそのような作品の存在を最近まで知らなかったのである。
(2002/3/3補足)

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