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太腿におおきな竜と虎がいて、かっこいいね、と言ったら笑った

中学三年生の冬、親が離婚して、名字が上坂に変わった。高校入学と同時に、同じ沼津市内にある年季の入った団地に移り住んだ。
リビングを兼ねた狭いキッチンとつながっている母の部屋があり、半分をカーテンで区切る形で姉の部屋があった。玄関に入ってすぐの独立した個室は私にあてがわれた。それは母によって、家族の中で私が一番繊細で、一人の居場所が必要なタイプと判断されたらしかった。
私は当時ロリータファッションを好んでいた。ロリータとはフリルやリボンが散りばめられた、絵本の中の人形やお姫様のように装飾華美なスタイルのことである。新しい部屋には奮発して買った白いワイヤーのお姫様ベッドを置き、さらにその上に天蓋をつけ、赤と白のレースカーテンに、独特なアーチの装飾がついたドレッサー兼作業机、壁には童話赤ずきんちゃんの絵を飾っていた。
母はアジアンエスニックな雰囲気の服やインテリアを好んだ。母の部屋には不思議な柄の敷物、ガネーシャっぽい象の置物、バリ島に行ったとき買ったらしいラタンのような素材(アタというらしい)の棚や箪笥が並べられた。
姉はヤンチャなギャルだったので、部屋はどぎついヒョウ柄とゼブラ柄で埋め尽くされており、マリファナの図柄の上に「R&B」と書いてあるラスターカラーの敷物が壁にかけられ、湘南乃風や倖田來未の曲が爆音で流れていた(R&Bがかかっていることはほぼなかった)。
エスニック、ギャル、ロリータ。この家では三者三様の個性が、けして調和することなく爆発している。狭い団地の一室で、爆発した上で渋滞している。上坂家の三人は、向かうベクトルはそれぞれ全く異なっていたが、決めた方向に突き進む強さだけが相似していた。

そんな我が家に、いつからか巨体の男性が出入りするようになった。母の知人だという彼は寺島さんといって、女しかいない我が家の引っ越しや買い出し、私の習い事の送迎なども手伝ってくれた。家族で外食する際は寺島さんも一緒に行くことが増えた。優しく頼もしい彼に私も姉もすぐに懐いて、寺島さんを略して「ティマくん」と呼ぶようになった。私が付けたそのあだ名をいつの間にか母も姉も呼んでいた。
ティマくんは縦にも横にも大きく、トトロのようなフォルムをしている。強面でいつも色付きのサングラスで、両の太ももには龍と虎が向かい合う刺青が入っていた。「ティマくんってヤクザなの?」と私が聞くたびに「ヤクザじゃないよ」と言われていて、「じゃあ何なの」とはなんとなく聞けなかった。
ティマくんとロリータ服を着た私が二人で歩いていると当然めちゃくちゃ目立つので、様々な人に声を掛けられる。それはティマくんが舎弟と呼んでいる笑顔の若い男性だったり、兄弟と呼んでいる笑顔の年配の男性だったり、訝しげな顔をした警官からの職務質問だったりした。確率的には警官が一番多かった。ティマくんは舎弟と会っても兄弟と会っても警官に何度職質をされても、私にそんな格好やめなよとは一度も言わなかった。
 
あるとき母が神妙な面持ちで、「ママがティマくんと付き合うって、どう思う?」と言った。姉は、いいじゃんいいじゃん!女一人だと心配だしさ、付き合いなよ!ていうかもう付き合ってるんだと思ってた!などと矢継ぎ早に感想を述べた。黙っている私に、母は「あゆはどう思う?」と尋ねる。私はその頃、今以上に恋愛というものがまったくわからずにいた。中学時代、告白めいたものをされて形式上付き合ってみた人はいたのだけど、相手から一緒に帰ろうよと誘われても、アニメの再放送を観たいからという理由で一人で帰宅したりして、数日から1ヶ月ほどで嫌になって別れるということを何回かやっていた。自分のことですらそれだったので、親が恋愛をするということがどういうことなのか、母がティマくんと付き合うことで私にどういう変化がもたらされるのか、当時の私には想像も付かなかった。
「よくわかんないけど、付き合ってもいいよ。だって、ティマくんとチューとかするわけじゃないんでしょう?」
齢16にもなって本気でこんなことを言う私に、母は沈黙した。姉は「あんた……それはさあ」とかなんとか、呆れながら私を諭した。誰も明言はしなかったけど二人の様子をみて、あ、チューとかもするんだな、と心の中で思った。親は親という生き物なのではなく、私と同じ一人の人間なのだなということは、このときに初めて知った気がする。
 
母はティマくんと正式に付き合い始めたようだった。ティマくんはほぼ毎日我が家に来て、寝食を共にするようになった。
 
私はますます彼に懐いていた。
マッサージして、とティマくんの前に足を投げ出すと、テレビを見ながら何分でも揉んでくれた。母はティマくんだって疲れてるんだからと嫌そうな顔をしたけど、ティマくんはこんな細い足を揉むくらい疲れないよと言ってずっとずっと揉んでくれた。私は調子に乗って毎日のようにマッサージをさせていた。
ティマくんがベッドで寝ていると、私はすぐさま飛び乗り、『となりのトトロ』のメイの真似をして「あなたトトロっていうのね!」と叫ぶ。そうするとティマくんは口を大きく開けて「トォ、トォ、ロォ〜〜〜〜」と言う。母と姉が笑う。私はこの遊びをとても気に入って、飽きることなく何回もやらせた。
 
ティマくんは私のことをとにかく甘やかして可愛がった。もちろん姉のことも甘やかしていたが、姉は友人や彼氏と遊びまくっていたので、時間的には私の方が甘やかされていたと思う。そのため、ティマくんが舎弟と呼んでいる若い男性たちに街で出くわすと、「お疲れ様です!!」と頭を下げられることもあった。柄の悪い男性たちが、制服姿の普通の女子高生に頭を下げているというのは異様な光景で、友達といるときはちょっとやめてほしいなと思った。
 
あるとき、ティマくんが割と新しい機種の携帯電話を私にくれた。当時のガラケーは同じキャリアであれば、SIMカードを入れ替えると別の機種でもそのまま使うことができた。女子高生だった私は喜んで使っていたのだが、数ヶ月後にティマくんから「あゆちゃん、悪ィけどあれ、返してくんねぇかな」と言われた。私は疑問に思いながら返却し、以前使っていた機種に再度乗り換えた。後日聞いたところによると、あれは元々ティマくんと近しい間柄の人の物で、なんとその人が殺人容疑で逮捕されることになったため、その証拠品として押収されたらしい。電池パックの裏に女子高生のプリクラが貼ってある携帯は、警察の捜査をかなり混乱させたことと思う。私は事情を聞いて怖くて震え上がったが、かといってそれに対して出来ることは何もない。
 
父の日が近づいたとき、いつもお世話になっているからティマくんに何かあげたら、と母が言った。姉は社交力と愛嬌だけはずば抜けているので、ノリノリでプレゼントを用意していたが、私は用意しなかった。だって、ティマくんは父親じゃない。私の父親は、外面だけは良いがギャンブル依存で母に暴力を振るって養育費を払わずにフィリピンに飛んだあの人で、それはティマくんじゃない。ティマくんはティマくんだ。なにかあげるなら彼の誕生日にプレゼントをしたかったから、例年そうしていた。
ティマくんがプレゼントをくれたこともあった。十七歳の誕生日に、「俺、若い子が欲しいもんわかんなくてさ。金運が上がるらしいよ」と言いながらくれたのは、私のおばあちゃんでもギリギリ使わなそうな、ギラギラした金色のフクロウの財布だった。私は照れながらプレゼントを渡してくれたティマくんの気持ちをとても嬉しく思って、お礼を言って受け取った。ただ、友人と遊んだ際にはどうしても財布を見られたくなくて、バッグの中に財布を入れたまま、お札や小銭だけを抜き取って支払っていた。
 
私は小学生の頃から大学受験が本格化するまで、モダンバレエとコンテポラリーダンスを教える地元のダンス教室に通っていた。離婚前の家庭にも、学校にもあまり馴染めずにいた当時の私にとって、踊っているときだけが生きていることを実感できる時間だった。月謝だけでなく衣装代やシューズ代もかかるので、母子家庭の我が家にとって安い金額ではなかったと思うが、母はお金について何も言わずに通わせてくれた。
レッスンでは、ボディファンデーションと呼ばれるストッキング素材でできた水着のようなものを着て、その上に白いタイツを履いて、その上にレオタードを着る。教室の更衣室はいつも混むので、私は制服の下にレオタードまでを全部着てゆき、帰りは汗まみれのレオタードだけを脱ぎ、ボディファンデーションとタイツは着たままで帰宅していた。帰ったらどうせ風呂に入るので、わざわざ替えのパンツを用意するのも面倒だったのだ。
ある日のレッスンが終わり、いつも通りティマくんが迎えに来てくれて一緒に家に帰った。夏だったのでタイツが鬱陶しく、家に着くなりすぐ脱いで、洗濯カゴに放り込む。リビングの椅子にティマくんが座っていて、私は何の躊躇もなくティマくんの膝の上に座った。この行動はいつものことだったから。ただその日はティマくんは少しもぞもぞしてしばらく経ったあと、「あゆちゃん、こっちの椅子に座りな」といって私を退けた。
後で母から「あんた、あのときノーパンだったでしょう。それでティマくんの上に座るから困っていたよ」と言われた。確かにパジャマとかズボンを着た状態で座っていたときティマくんは何も言わなかったけど、あの日は薄い素材のボディファンデーション一枚のみで、その上は制服のスカートだった。
今考えればティマくんのしたことはとても真っ当だったとわかる。本当の親子だったとして、女子高生の娘がほぼノーパンで膝の上に座ってきた場合、まともな父親ならやめなさいと言うだろう。でも、あのときの私はそれが少しショックだった。多分私は、ティマくんの前では小学生か幼稚園児みたいに振舞い、そのように扱われたかったのだ。それこそ『となりのトトロ』のメイちゃんみたいに。
自分が一人の女性として扱われる存在になっていることを受け入れられない気持ちもあったし、同時に私はティマくんに、かつて自分が幼少期に得られなかった父性を強く求めていたのだ。
 
高校卒業後、私は東京の美術大学に通うために上京した。初めての一人暮らしをするにあたり、ティマくんは馴染みのリサイクルショップ(彼は『ぼっこ屋』と呼んでいた)に話をつけて、相当な割安価格で私の家具を調達してくれたり、家に不審者が出た際には心配した母と一緒に東京まで来てくれたりした。十代で結婚した姉の結婚式に参列し、本来新婦と父親が歩くバージンロードを一緒に歩いたこともあった。私が大学二年の文化祭でアイドルライブみたいなことをやったときは、母や姉や姉の子どもを引き連れ、わざわざ車で見に来てくれた。ティマくんはその日も相変わらず色付きサングラスに柄シャツ、いつもどおりかなりの強面だったが、トンチキなアイドル衣装の私と一緒に満面の笑みで写真を撮ってくれた。
 
その後は就活や労働が忙しくなり、ティマくんとはほぼ関わりがなくなった。しばらく経ってから母が彼と別れたことを聞いた。もうすでに会っていなかったし、私は東京で自分の暮らしをするのに手一杯で、特になんとも思わず「あ、そうなの」とかなんとか答え、この話は終わった。
まともに別れの挨拶もしないまま、ティマくんと会わなくなって10年以上になる。その間母には別の彼氏ができたことがあったが、私はその人にはあまり心を開くことができなかった。母はそのしばらく後、また一人に戻った。
 
ところでつい先日、『カラオケ行こ!』という映画をひとりで観た。
原作を読んだときは独特なギャグセンスに魅了され、あの笑いが実写映画でどのように再現されているのだろうと気になっていたのだ。この作品はヤクザである成田狂児(演・綾野剛)が、ひょんなことから普通の男子中学生である岡聡実(演・齋藤潤)と出会い、カラオケの歌い方を学んだり学ばなかったりする話。聡実くんは当初ヤクザの狂児を怖がっているが、彼の真摯な振る舞いや優しさに触れ、次第に心を開いていく。二人はカラオケ大会のあとやや疎遠になり、たいした挨拶もしないまま距離ができてしまう。それでも聡実くんの心には、狂児から受けた優しさや愛が、唯一無二のものとしてずっと残っていた。

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