「夕方の車内」で登場人物が「噛み付く」、「月」という単語を使った三題噺

「――全く、これだけ涸れ、萎れ甚だしい仕事もこの頃では珍しいよ」

 カタン、カタン。

 乗り合わせる客も碌にない列車客車、古びた座席から足を投げ出すと、僕は盛大に小言を垂れ流した……我ながら竜頭蛇尾この上ない。

 カタン、カタン。

 水平線擦れ擦れに傾いた夕陽の赤い光が、向かいの窓から遠慮会釈も容赦もなく、水平に僕の眼へと突き刺さる……何故この線は海沿いの崖上何ぞ走っているものか。仕事を上手く遂げられず、児戯の如く不貞腐れている我が脳は、何事にも満遍漏れ無く不平不満の値札 を値踏み、綾踏まずには居られなかった。

「嗚呼」

 ぼやきとも溜め息ともつかぬ呻き声を僕が上げた丁度その時、女々しいブレーキ音を鳴らして停まった列車に、奇妙な一団が乗り込んで来た。

 ―― 一見すると何処ぞ学校の女生徒の群れと思われるそれは、しかし総て首輪を着けられて居る上に、そこから伸びる飼い紐の先は、如何にも人生に草臥れたと云う初老の男に握られている。

「ほれ、その辺の椅子に大人しく座って居れ」

 男は彼女たちの飼い紐を放さずそう云い捨てると、自分は席の傍に立った儘で閉じた扉に凭れる。その頃僕は既に左右前後を首輪付きの少女達に座を占められており、何とも落ち着かない心持ちになっていた。

「んん」

 一息吐いてこの僕の怪訝な表情に気付いたか、眼が合うと肩を竦め、「済まんな、兄さん」と零した。そのまま暫く、車内には無言が罷り通ると、音の無い音がカタン、カタンと云う頼り無い列車の走狗される伴奏を許していた。

「これは一体、何の騒ぎです。あんたは人攫いか何かですか」

 僕はこの方、こんな様子を見たことが無かったので、初老の男に訊ねることにした。「んん、兄さん何処のお人かな? ホムンクルスをご存じ無いとは」驚くでもなく、眇めるでもなく、男はただ平常に答えた。

「儂は入口町でこのホムンクルスを商って居ったが、あそこはもう駄目だ。銅山が閉鎖されちまったからな。お大尽からこぞって街から逃げ出してゆく」

 男の愚痴を右から左に聞き流しながら、僕は、僕の隣に座って僕を見詰める、剣呑な瞳を見返していた。

 ホムンクルス――水銀燈の作用で生み出される、塵垢的な亜人間。三池三倉の辺りでは持て囃されていると云 う話は聞いていたが、実際にお目に掛かるのは初めてのことだった。

「こいつが塵垢的なバッタ者とは驚きだね、中々奇麗なものじゃないですか」

 僕は彼女の様 子をそんな風に評した。

 実際、僕は彼女の清楚な美しさと云うものに驚いていた。白蝋を固めたような薄らと青味掛かった肌、硝子玉のような目玉に、腰の在る艶やかな黒い御河童髪……そんな外見的な部分も然る事ながら、何よりもその無垢な表情に心囚われた。そう思った瞬間だ。

「ぎゃっ」

 僕は悲鳴を上げなくてはならなくなった。そのバッタ者の少女が、有ろう事か僕の腕にがぶと噛み 付いたからだ。

「こいつは参った」

 男はその様子に眼を見張る。

「齰癖は矯正した筈だったがなあ、こいつは売り物にならないか」

 否否、そんな吐露をする前 に、この少女を何とかしてくれないものか。

「兄さん、こいつをやろう」

 男はそう云うと僕に、何本も握っている中から器用に彼女の首輪に繋がっている 飼い紐だけを選り出し、それを握らせた。

「は、一体どういう料簡です?」

「何、そいつは売り物にならない。だから呉れてやろうというのだ」

 男の言葉に、僕 は混乱を強いられる。当然のことだ。

「さ、降りるぞ御前達」

 ところが、僕が亢奮を鎮める前に、男は他の亜少女達を引き連れて、列車を辞してしまったではないか! 混乱と噛み付いたままの亜少女だけを友として、僕は紫陽の充ち始めた列車の中に、ぽつり、と取り遺されてしまったのだった。

「はあ」

 僕はしかし、気を取り直して彼女を眺めた。

「だがまあ、こんな調子なら僕も馴れたものだ」

 噛み付 いた儘の彼女を眺めると、僕は笑う。

「僕はスッポンを商っていてね。この程度は噛まれる裡になど入らぬ具合さ」

 肩を竦め、僕は彼女に話し掛けた。不思議 と、彼女が微笑んだようにも思える。

「窓に月が昇る頃合いになれば、その美しさに顎も緩もうよ……それまでは居眠りと洒落込むさ」

 噛まれて居 ない方の手で彼女の頭を撫でると、彼女の瞳が、まるで三日月を描くように笑いの弧を描く――ような。

 全く、惚れた腫れたとは良く云ったものだ。せめて彼女 の噛み痕が腫れなければ良いのだけれど。

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