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鬼と雨  《八》

 灰色の雪が降る。強い風に煽られ巻き上げられ、渦となってわたしに降り注ぐ。暗闇の中手足は動かず、わたしは為す術なく埋もれてゆく。雪片は冷たくはなく、ただ紙屑のように降り積もる。
 違う。蝶だ。いつもの、灰色の小さな蝶。一羽ならば愛らしい。だけどこれほど夥しい数が舞う姿は悍ましく、奇怪に見えた。群は一つの意志を持つように、わたし目がけて飛んでくる。顔は埋め尽くされて何も見えない。それどころか、蝶は口の中に入ろうとしているのか、もぞもぞと蠢きながら唇をこじ開けようとしている。ぱさぱさとした感触が舌に当たる。蝶は自ら命を絶つようにわたしの中に入ってこようとする。

 息ができひん。殺される――。

 もうあかん、そう思たとき。
 ごとっ、と物音がして目が覚めた。鼓動が速い。まだ口の中に蝶がいるような気がして、わたしは何度か咳き込んだ。
 音の主はあめだ。箪笥の上に飾ったまま、かまってあげていなかった。わたしは慌てて拾い上げ、乱れた髪を梳いてやる。

「起こしてくれたん? おおきに」

 怖い夢から目覚めさせてくれたことに感謝し、人形を腕の中に抱いて、赤ん坊をあやすようにゆらゆら揺すってみる。
 月明かりのせいか、硝子玉の目はうるうると湿り気を帯び、今にも泣き出しそうに見える。

「堪忍、堪忍やで。痛かったやんなぁ……」

 ままごと遊びのようにあめを宥めていると、階下から声が聞こえた。誰か訪ねてきたのか。こんな夜中に。
 さっと血の気が引いた。気になっていても立ってもいられず、わたしは寝間着の上に丹前を羽織って階下に降りる。
 玄関先にいたのはご近所のお米屋さんのご主人だ。うちは父が電話を嫌って引かなかったので、何かあったら電話を取り次いでくれる。
 話は終わったところなのか、笹本さんが深々と頭を下げていた。

「こないな夜中におくたぶれさんでございます」
「かましません、かましませんよって。ほな、息子に車回させますさかいに」

 気のいい小父さんは早口に言いながら、急ぎ足で玄関を出て行く。
 笹本さんは覗き見していたわたしに気づくと、静かに告げた。

「董子さん、着替えてください、直に車がきますよって」

 息を呑む。言葉が出てこなかった。

 しず姉様——。 

「梧桐先生から電話があったそうです」

 わたしは口をぱくぱくとさせながら、笹本さんの袖に縋る。幼子のように首を嫌々と横に振る。深夜の電話が不吉なことは知っている。父が死んだのも、今日のような寒い夜だった。

「落ち着いてください。しずお嬢さんは、ご無事です」

 しず姉様はご無事——ああ、そういうことか。
 ほどなく車が到着し、わたしは笹本さんに押し込まれるように後部座席に乗り込んだ。
 手足が酷く震える。寒さのせいなのか、恐ろしさのせいなのかわからない。闇夜にぽつりぽつりと頼りなく街灯の光が滲む。車から見る夜の景色はまるで知らない場所のように見えた。
 暗い。夜はこんなに暗いものなのか。日が暮れてから出かけることなどほとんどなかったから、わたしはただの暗闇に怯えていた。無力で矮小で、夢に出てきた羽虫にさえ殺されかけるような、何もできない子どもなのだ。深い暗闇にかかったらわたしなど一飲みだろう。
 身体を小さく丸めて恐怖を耐えていると、笹本さんが気遣わしげに背中をさすってくれる。

「今夜は冷えますよって」

 そう言って笹本さんは毛糸で編んだショールを肩にかけてくれた。手提げの中にはもう一つ、色違いが入っている。しず姉様の分だ。お揃いのショールはきっと、笹本さんが編んでくれたのだ。

「これ……」
「ほんまはお正月に渡そ思てたんですけど」

 涙が溢れそうなのを、唇を嚙んで堪えた。何ごともなくお正月を迎えて、お揃いのショールをもらったら、どれほど嬉しかっただろう。
 窓にわたしの顔を映したまま、車は病院の敷地に入る。とても、とても暗かった。夜の闇を走ってきたと思っていたが、そこには実は月や街灯の灯りが満ちていたのだと知った。これほど暗い場所があろうか。光をすべて呑み込むような常闇に戦慄しながらも、ああ、ここはそういう場所なのだと、わたしはとうの昔に理解していた。

「董子! きてくれたんや。嬉しい、董子の顔が見たい思てたんや」

 病室を訪れると、存外に明るい声のしず姉様に迎えられる。呆気にとられて、わたしは見舞う言葉を忘れた。
 しず姉様は、いつものように屈託のない笑顔でわたしを見ている。白い手をひらひらさせて、早よう、早ようと急き立てる。
 何で笑てはるの。ご心痛のあまり、おかしゅうなってしもたんやろか。
 恐る恐る、わたしはしず姉様に近づく。どんな顔をすればいいのかわからず、ただ口を真一文字に結んで、労りの言葉を必死でさがしていた。
 
「寝とったやろ、ごめんなぁ、こないな夜中に」
「ううん、平気……」

 やっとそういって、わたしはしず姉様の手を握る。上気した頬とは裏腹に、ぞっとするほど冷たかった。笹本さんはわたしの傍らに立ち、手提げからショールを取り出ししず姉様の肩にかける。

「しずさん、これ。病室は冷えますよって」
「わぁ、笹本さんがこさえてくれはったん? いつの間に」
「お嬢さんにはこないなむさいもん、似合わんかもしれませんが」
「ううん。かいらしいわ。董子とお揃いやな。嬉しい」

 ショールの端をぎゅっと持って身体に巻きつける様はあどけなく愛らしい。しず姉様とお揃いのショールだなんて、ここが病院でなければどれほど幸せな気持ちになれただろう。

「董子。ほんま、ようきてくれた。先生、梧桐先生!」
「これ、病院で大きい声出しな」
「他に患者さんおらへんやないの」

 呆れたように言いながら、梧桐先生は甕《かめ》を抱えて持ってきて、よっこいしょと言いながら、ベッドの横のテーブルに下ろす。
 梅干しや味噌が入っているような甕だ。蓋を開けると、中には赤い液体で満たされていた。しず姉様は長い箸で中を探り、そっと何かを持ち上げる。どろりとした、赤い塊。
 噎せ返るような血のにおいに怯み、わたしは一歩、二歩と後退る。
 驚くわたしに、しず姉様は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「董子、食べて」
「……え?」
「食べて。うちのややこ」
「な、何言うて……」

 血まみれの肉塊は、やはりしず姉様の。

「梧桐先生がな、董子に食べてもらいて」

 耳を疑う。梧桐先生が? 絶望から逃れるためのしず姉様の戯れではなく、お医者様が本気でそのようなことを?

「ほら見て、ここ。わかる? ちいこいお手々。可愛らしいやろ」

 白いお皿の上で広げて見せてくれる。薄桃色の赤子の手だった。まだ爪もあるかないかわからないけれど、確かにそれは手の形をしていた。

「お顔も見る? ちょお待ってな」

 ひっ、と喉の奥が引き攣る。わたしの反応を見て、しず姉様は少し寂しそうに首を横に振った。それから、甕の中から一番小さな欠片を摘まみ、持ち上げた。

「ほら。董子のかいらしいお口でも、食べやすいわ」

 ぽた、ぽたと血が滴る。白いシーツに、しず姉様の寝間着の袖に、さっきもらったばかりの手編みのショールに。
 はい、あーん。と、まるでお菓子を分けてくださるときのような気安さで、肉片をわたしの口元に近づけてくる。

「や……堪忍や、堪忍してしず姉様……」

 助けを求めて笹本さんを見遣る。だけど彼女も恍惚とした表情でこちらを見て微笑むばかりだ。

「よばれはったら、董子さん。身体が丈夫になりますよって」

 何を、何を言うてはるの。
 身体が丈夫になるて……。

 あ——。

「血ぃだけやのうてお肉まで手に入るやなんて、董子さんは運がええわ」

 目を細めて、心底嬉しそうに笹本さんが頷く。
 あれは、血だったのか。身体が丈夫になるといって、飲ませてくれていた液体。貴重なものだと言っていた。あれは……。
 赤子の血だ。おそらくは、この世に生まれてこられなかった赤子の、命の雫。
 どこからか、泣き声が聞こえる。ほやほやと頼りなくお乳を求める声だ。あれは生を受けられなかった悲しみの残滓か。それとも知らないのだろうか。ここには母はおらず、己の命は潰えていると。
 胃の腑から喉に何かが迫り上がってくる。目眩がして、しず姉様のお顔が歪む。カーテンの影や壁の染みが小さな人影に見えた。

 嫌、怖い。怖い——。

 逃げようとすると、はっしと手を掴まれた。

「そないに怖がらんといて。なぁ、董子。うちのややこや。ずっとおなかにおったんや」

 背後を二人の大人に阻まれ、わたしは身動きを取れずにしず姉様と対峙する。
 今までと変わらない、優しい微笑みを湛えて赤子の肉を食えと迫るしず姉様から目を逸らせない。

「一口、一口でええから、後生や、董子」

 いつの間にか、しず姉様は泣いていた。ああ、やはり無理をされていたのだ。悲しみを堪えて笑っていらっしゃったのだ。
 それに気づくと後悔で胸が詰まる。これほど傷ついているしず姉様の願いを聞いてあげられないなんて。
 大好きなしず姉様。ずっとおそばにいたいと思っていた。妾腹で本家からも疎まれ、身体は貧弱で学校にも行けず友だちもいないわたしに、いつも優しくしてくださった。

「……ごめんなさい」

 しず姉様は、わたしが想像するよりも遥かにお優しいのだ。こんなにばらばらになって血だまりの中に浮かぶ肉片になっても、我が子を愛おしいと思っていらっしゃる。
 わたしはそれをじっと見つめた。
 とろりとろりと血が流れ落ちるとやがて、皮膚らしきところが見える。箸先から垂れ下がり僅かにふるりと震える。白くて柔らかそう。羽二重餅みたいだ。
 わたしは意を決して口を開ける。しず姉様のおなかに宿った愛おしい命。何を怖がることがあろうか。

「おおきに、董子。ほんま、おおきに」

 涙声で繰り返しながら、しず姉様はわたしの舌先にそっと、お肉を載せた。血の味がじわりと口の中に広がる。噎せ返りそうになるのを必死で堪えた。これ以上、しず姉様を傷つけてはいけない。
 飲み下した瞬間、身体の内側を小さな手が這い回るような感じがした。ぺたぺた、ぺたぺたとおなかの中を触られている。小瓶に入ったお薬――赤子の血を飲んだときにも感じたけれど、今はそれ以上にもっと鮮烈に、その小さく愛らしい指先が見えるかのようにはっきりと感じる。
 わたしはいつの間にか、この世に生を受けられなかった子たちの命をこの身体に取り込んでいたのだ。
 そして、共に生きている。
 身体中に血が巡る。ざああっと慈雨が降り注ぐように。だけどそれは激しくて、あまりに激しくてひ弱なわたしの身体は悲鳴を上げる。くらくらして、立っていられない。

「熱い……おなかが、熱……」

 ようやっとそれだけ呟いたあと、どんっと身体に衝撃がきた。うっすら開けた目に写るのはリノリウムの床だ。冷たくて気持ちいい。わたしはほっぺたを床にくっつけ、熱が去って行くのを待つ。
 しず姉様と笹本さん、それから梧桐先生が口々に何か喋っている。だけどよく聞き取れない。
 しず姉様は泣いていらした。うちのせい、うちのせいと言って。
 ああ、大丈夫だと伝えなければ――。
 記憶はそこで、ふつりと途切れた。

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