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慣用句は難しい

なんだかバタバタしていて、久しぶりの投稿になってしまった。少し前のことにはなるのだけれど…

今朝、家族で朝ドラを見ていて、兄が「主人公は片耳難聴なら補聴器つけるとか、見た目からわかりやすくすればいいのにな」と言ったので、「う~ん、そういうものでもないよ。片耳だと使っていない人もたくさんいるし、補聴器をつければすぐに解決するものでもない」と説明した。

そういった点で、難聴≒補聴器・手話のイメージがあること、それだけで済む単純な問題だと認識されている部分もまだまだあるんだな、と自分自身も再認識した。

これについては、また後日話そうと思う。

今回は、そんな会話の中で「耳をそばだてる」というワードが出てきて、これってとても難しい表現だな、難聴児にどう伝えればいいだろうかとふと思った。
「耳をそばだてる」は慣用句で、辞書的には以下の意味だ。

音が聞こえてくると思われる方向へ意識を集中してはっきりと聞き取ろうとすること。
類義語:聞き耳を立てる

類義語の「聞き耳を立てる」も難しい。
慣用句の何が難しいのかと言うと、文面と意味が異なる点にある。書いてある通りに解釈すればその意味であるということではない。

難聴の子どもたちは、幼少期から具体的な「実体験」をし、それを「再現遊び」や「絵日記」などをもちいて体験を想起し、そこに言葉を添えて言語を習得していくというプロセスを踏むことが多い。

健聴の子どもたちでもこれは同じかもしれないが、「意識して」行うことに、入力に制約のある子供たちへの支援の特質があると思う。
幼児期にまずは、自分の生活に密着した具体的な言葉と概念を身につけていく。

慣用句は、ある語句と語句が強い結びつきをもって一つの意味を作り上げる「成句」であり、分解して解釈することはできない。

私たちはどうして、いつの間にこんなに自分自身とかけ離れたイメージの世界にある言葉を使うことができるようになるのだろうか?
子どもたちは、色々な文脈において様々な経験を積む中で、たくさんの音を「小耳にはさんだり」、「片耳できく」。これは、24時間本人の意識に関係なく開かれている感覚である聴覚情報の特徴である。目は閉じれば視界は暗くなる。しかし、耳は眠っているときでさえ、音を拾って私たちの脳を刺激している。

きっとそんなことは誰も意識していないし、聞いた覚えもないだろう。しかし、確かに私たちは聞き、運動発達で自分でアプローチできる世界が広がったり、ものの永続性や三項関係、二次表象など…様々な心理、言語学的側面の発達のバランスがとれてきたとき、これがふとある場面において実感を伴って思い出され、自然な文脈の中で使用できるようになる(習得できる)のだと思う。

先ほども述べたように、これは聴覚が意識、無意識にかかわらず、常に開かれた感覚であるから為せることであり、実は私たちは学んでいないようでずっと学んでいるのである。

しかし、これは健聴児であるからできることでもある。
難聴児はその程度にかかわらず、何の手立ても行わなければ、健聴児と同様のきこえを得ることは難しい。それは上述したような入力が必然的に少なくなってしまうということであり、言語発達全体に影響を及ぼすことは想像にかたくないだろう。

私たちは普段から自分の気持ちや目の前で起こっているすべてのことを言葉にしているわけではない。しかし、自分に言い聞かせるように、確認するように「呟く」ことが全くない人はあまりいないのではないだろうか。そんな「呟き」の中に言葉の発達のタネが散在している。

難聴児を育むとき、周囲の大人たちはほんの少しだけ、その呟きを音にすることを意識してみてほしい。それはオリジナルブレンドの肥料のようなものだ。

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