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雑記:隠しページ探し

今回は暗号解読とは別の、だが筆者の原点でもある、とあるゲームについてつらつらと語りたいと思う。

昔流行した「隠しページ探し」というものをご存じだろうか。とは言ってもここで語りたいのは、厳密な意味での隠しページ(その存在を公開されておらず、通常の方法では行きつくことのできないページ)ではなく、ゲームとしての隠しページ探しである。つまりあらかじめ何らかのページが隠されていること自体は公開されており、それをあらゆる手段を使って探し出すものである。

隠しページとはどのようなものか。それは名の通り、様々な方法で隠されているページを探すゲームである。リンクを見つけてクリックしたり、手掛かりを見つけてURLに直接入力したりして次のページに行き、そしてゴールを目指すのである。

隠し方も様々である。
文章に紛れて次のページへのリンクが置いてあるかもしれない。
とりあえずCtrl+Aですべて選択してみると、背景と同色の文字が浮かび上がってくるかもしれない。
極めて小さい文字で書かれたリンクがあるかもしれない。そうだとしたらTabキーをぽちぽち押しながら探さなければならない。
ダミーのリンクがあるかもしれない。ならば画面下部に表示される次のページのURLをよく観察しなければならない。
ページタイトルに次のページの手がかりが隠されているかもしれない。
単純に、1分ほど放置すれば自動的に次のページにジャンプするかもしれない。
URLに法則性があるので、その法則にしたがえば次はこれかもしれない。
ソースコードの中に隠されているかもしれない。コメントか、それとも存在しないHTMLタグか。隅から隅までソースを読まねばならない。
ソースコードだけではなく、スタイルシートにも何か手がかりが仕込まれているかもしれない。
今見えている画像の中に秘密が仕込まれているかもしれない。背景が黒いがもしかしたら黒に近い文字で何か書かれているかもしれない。あるいはバイナリデータに何か隠されているかもしれない。ならばツールが必要だ。

……そんな感じで、出題者はインターネットの仕様を活かした謎を出題し、探索者は持っているインターネット・パソコンスキルをフル活用して答えを探し出していく、それが隠しページ探しである。

サイトの作りも様々であった。シンプルな美を感じさせるサイトや、雰囲気作りに凝っているサイト。広い大草原を、ダンジョンを、妖しい洋館の中を、宇宙空間を、サイバースペースを、夢の世界の中を進んでいるかのようだった。その雰囲気には大いに冒険心を刺激されたものである。

残念ながら現在、隠しページ探しは昔ほどの賑わいを見せていない。情報発信の手段として個人サイトが主流であった時代は過ぎ去った。多くのサイトが消滅してしまった。Internet Explorerのサポート終了やFLASHの廃止など、インターネットの仕様の変化も相まって、いくつかの謎は意味をなさなくなった。生き残っているサイトはあるが、広告に埋もれてしまったものもある。
それでも、なんだかんだで息の長いコンテンツでもある。きっと今も、現役で、あるいは思い出したように、隠しページに挑む人々はいるのだろう。

とはいえ、無邪気に隠しページに挑んでいた少年時代は過ぎ去って久しい。今、自分はかつてよりも多くの知識やスキルを持っている。しかしそれを活かす機会はとうに失われてしまった。そのことに、一抹の寂しさを覚える。

そして隠しページを通して得たテクニックは、遊びの手段として作られただけではなく、非合法なものをごく限られた者の間で共有するために培われてきた側面もあることも知ってしまった。
たとえばマスクという技術がある。それは画像にスクランブルをかけて分からなくするが、適切な操作により元に戻すことができるというものである。ところが旧世紀末には、この技術があろうことか猥褻な画像に可逆性モザイク処理を施すために用いられたというのだ。純粋な謎解きとしてマスクを使ったことのある自分は、これを知ったときは唖然とし、かつ憤激したものであった。控えめに言えば公園の砂場を大人たちに踏みにじられた子供の気持ち、大袈裟に言えば聖域を穢された番人の心持ちであった。
そして、そのような画像を「お宝画像」と称していることに反感を覚えたものだった。

謎解きに青春をかけた自分としては、「お宝」とは猥褻画像のことではない。謎に挑む知的興奮と解けた時の喜び、それこそが我が真の宝である。
エロスとは、良くも悪くも様々なものの原動力たり得るものだろう。否定はしない。だが、それは純粋な知的遊戯の場からは、まず第一に排除されるべき無粋な夾雑物なのだ!(個人の感想)

誤解なきように申し上げると、エロスを原動力としてインターネットスキルを磨いてきた人が少なからずいることは承知しているし、重ねて言うがそのことを否定するつもりはない。ただ、彼らと自分とは通って来た道が違うだけなのだ。

話題転換。
ソースコードにコメント、つまりプログラム実行に一切かかわらない文章を付ける機能を考案した人は、それが謎解きや遊びに使われるだろうと予想していただろうか。筆者が思うに、おそらくそうだろう。ソフトウェアに本来の機能とは無関係のメッセージ(イースター・エッグ)を盛り込むことは、古くからおこなわれていたのだから。プログラムにユーモアを混ぜようとする人は昔からいたと思う。そうはいっても、本来コメントとはお遊びのために作られた機能ではない。それを謎解きなどの遊びに使ってやるということに、一種の妙味を覚えるのは筆者だけではあるまい。

「真面目に使うために作られたものを、本来の用途から外れたお遊びに敢えて使ってみせる」という点でいえば、このnoteで扱っている興奮する真の知的遊戯(個人の感想)・暗号解読も同様だろうか。よくよく考えれば暗号とは本来、解読されることを想定して作る謎解きの玩具ではない。それを、謎解きの遊戯として出題する。昔の人がこれを見れば、けしからぬと怒るだろうか。それともよくやったものだと笑うだろうか。

人はいつから、真剣な情報隠匿手段である暗号を、娯楽にも転用し始めたのだろうか。おそらく一般大衆に暗号が浸透したのとほぼ同時だろう。19世紀後半、チャールズ・バベッジは友人のチャールズ・ホイートストン、ライアン・プレイフェアと共に、新聞の私事通信欄の中の暗号文を解読することを楽しんでいたようである。ホイートストンとプレイフェアは実用暗号としてプレイフェア暗号を発明・普及させた人たちだが、こんな遊びもやっていたのだ。
そしてエドガー・アラン・ポーの著した『黄金虫』は暗号を用いた小説の草分けとされ、コナン・ドイルの『踊る人形』もまた著名である。

そろそろ話をまとめると、ゲームとしての隠しページや暗号解読には、「本来遊びの用途ではないものを、敢えて遊びに使う面白さ」の要素があると思われる。これはあくまで一考察に過ぎない。ただ確かなことは、そんな考察など抜きにしても、純粋な謎解きはそれ自体が楽しいことである。

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