車購入
【 1983(昭和58)年5月 20歳 】
次の日、さっそく私は再びバイクに乗り中古車店を目指した。国道9号線を東に向かう。約30分後、昨夜訪れた店をパスし国鉄荏原駅近くにあるスズキ自動車の直営中古車販売店に着いた。フロンテ、アルト、1BOXに軽トラ。色々あったが正面の目立つところにセルボがドーンと展示されていた。しかも2台。それを見て私は、
『あぁぁぁ…やっぱりいい…。他のどの車(軽)とも違う。』
と改めて思った。買う車種と決めてしまっているからか余計に良く見えてしまう。こういう傾向は人間の性である。しかしこれは実際個性の塊のような車であった。大胆すぎる程の車高の低さに加え楔(くさび)のようなそのフォルムはまさにスポーツクーペ。なんでもジウジアーロとかいうイタリアの有名デザイナーが手掛けたものらしい。普通に考えると軽自動車にこんなデザインを施すなんて考えられないくらいだ。私は車に近づき前から後ろから横からと舐めまわすように観察した。すると、
「よろしければ中も見ますか?」
っと、店員さんが声をかけてきた。
「いや…え…と…。」
っと私がしどろもどろの状態でいると、
「どうぞ。どうぞ。」
っとドアを開け私をエスコートする。だが私はすんなりとそれを受け入れられなかった。店員さんにすれば至極当然の対応だが、私にしてみればここが情報収集の1件目なので心の準備がまだ不十分だったのだ。だからこのようなタイミングでいきなり店員からセールストークをブチ込まれてはただでさえチキンの心臓が更に委縮してしまう。学生にとって天敵であるアパートにやってくる新聞購読の契約取りや、街中でアンケートに答えた後『あなたの為になる』とまことしやかな美辞麗句を並べて纏わりついてくる手法の勧誘など、まだそれらの方が慣れている分やり過ごし易いくらいだ。しかしさすがに相手もプロフェッショナル、
「まあ、軽い気持ちで見ていってください。」
「あ…はい。」
「私(店員)は他の仕事がありますのでどうぞご自由に。シートに座っていただいても構いません。」
「えっいいんですか?」
「はい。もちろんです。」
そう言って店員さんは事務所に入っていった。おかげで肩の力が抜けた私は早速シートに腰を下ろした。すると何だろう…この初めての感覚…は…。私はいきなり舞い上がってしまった。
『小さい? いやそれほど…。』『視線が低い。』『おお、メーターが多い。』『なんかスゴイ。』
色々なことに感心しながらクラッチを踏みシフトの感触を確かめたり、シートを動かしたり。また、後部座席に座ってみたりした。同様にもう一台も同じように試した。今まで運転席に座ったことのある車と言えば、自動車試験場ではトヨタのクラウンと路上練習での山浦さんの日産バイオレット。これら一般平均より大きなセダン型の車に乗っていたため、軽自動車のしかも超車高が低いスポーツクーペのシートに座った感覚は驚くべきものであった。と、同時に何とも男心がくすぐられるような感覚でもあった。面白い。とにかく面白い。私は更にこの車に惚れ込んだ。ただ、この2台は私の希望条件には少々そぐわなかった。最初にシートに座った方は見た目にも新しく走行距離もまだ6000km、製造も去年のものだった。状態は至って素晴らしいが、やはり値段が合わない。何と56万8千円。新車の価格が69万8千円なので…ん~っ…それが適正な価格であると言える。だが、予算オーバーもいいところである。そしてもう一台と言えば4年前の1979年製。値段も26万円。狙い通りの年式しかも予算も余裕でバッチリではあるが、こちらは走行距離が67000km。年式の割にはかなり走っている。そして色はシルバー。…色も好きじゃないし…やっぱり走行距離がどうしても気になった。日本車の場合、軽自動車でも現在の車ならば10万kmを超えてもまだまだ現役を保てることが多いが、当時の軽はそのレベルとは言い難い。既に67000kmはリスクが多すぎる。残念ながらこれも除外するしかなかった。
しかし初めてスズキセルボの現物を堪能できたことは非常に有意義であった。すっかり満足した私は事務所に行き先程の店員さんにお礼を言いその店を後にした。
私はそのまま東に進路を取った。次の目的地(中古車店)は松江市中心部にある。途中『美人の湯』で知られる玉造温泉をパスし松江に向かう。先程の店からはまた30分くらいかかる。それにしても出雲から松江に至る宍道湖の南岸を通る国道9号線は寂しい。いくら湖と山に挟まれているとはいえこの商業施設の少なさは何だろう。決して大都市とは言えないが松江市と出雲市は山陰地方第一と第三の人口を有する都市である(第二は鳥取市)。ここはその2大都市を結ぶ20kmにも満たない区間であり交通量もそれなりに多い。にもかかわらずボウリング場やパチンコ店はもちろん大型書店、スーパーすら皆無なのである。素人の見解だが、全国的に知られる宍道湖の湖畔というロケーションを活かし、せめて小洒落たレストラン・喫茶店などがあればドライブがてら若者が集まるのではないかと思うのだが…。でも事実それらが存在しない言うことは…やはりその程度の地域ということなのだろう…。商売が成り立つのであれば、とっくにそれらの店舗があるはずである。…そんな訳で松江市の中心までカーディーラーも中古車店もないのである。何と効率の悪いことであろうか。しかしそんなことを思っても仕方がない。私はひたすら東に走った。
1店舗目からは30分、アパートからだと約1時間。ようやく2店舗目に到着した。今度はスズキの販売店ではなく、どんなメーカーでも扱う中古車専門店である。実はこの店は仮免に合格した日に寺石先輩に立ち寄ってもらった店だった。私は早速軽自動が展示されているスポットに急いだ。中古車情報誌によるとこの店に置いてあるのは走行距離21000km、3年半前のものでカラーは赤。前オーナーは女性で程度も良好、そして肝心な価格は41万円。少ぉ~し予算オーバーながら何とか頑張れば許容範囲内だし、データが事実なら場合によっては即決してもいいくらいのものだった。そう思いながら歩いていると少々興奮してきた。心臓はドキドキ、息は大きくなり、喉が渇く。段々近づくと赤いセルボが確認できた。私は更に興奮し歩みを速めたのだ…が…何か様子が可笑しい。明らかに他の展示車と雰囲気が違っていた。何だろうか? …っと、よく見るとフロントガラスに表示されている展示車の価格や情報が書かれてあるプレートが外されているではないか。
『ん…と…これは一体…。』
と思っていたら店員さんが近づいてきて、『商談中』と書いてあるプレートをフロントガラスに掲示し始めた。
「あっ!」
私は思わず声をあげてしまった。するとその店員さんが私に向かって、
「この車を見に来たんですか?」
「はい。」
「そうですか。申し訳ないですがタッチの差でした。」
「え…タッチって…。」
「30分くらい前に見に来た方がおられましてね。」
「そうなんですか。でも商談中って…決まってないってことですよね。」
「はい確かにそうなんですが…おそらく決まっちゃいそうです。」
「そうですか…。」
「せめてシートに座ってみますか?」
「はい。ありがとうございます。」
私は再びセルボのシートに身体を委ねた。やっぱりいい…。それに先程2台と違い本当にきれいな車内だった。また変な臭い…そうタバコの残臭がなかったのだ。私はタバコを吸わないので、そういった臭いに少々敏感であった。
『はぁ~。残念だなぁ…。コレ欲しかったなぁ…。』
と思っていたら店員さんが、
「エンジンかけてもいいですよ。」
「えっ本当ですか。」
「はい。どうぞどうぞ。」
私はクラッチを踏みギアをニュートラルにし、ブレーキも踏みつつキーを回した。
『ギュギュズギュヴヴヴヴォーンキュルキュルヴヴヴヴォーン』
な、な、何とも言えないエンジン音。ピーキーで落ち着きがなくて金切音のような我儘なサウンド。でもそれでもいい。これも2サイクルエンジンの特徴である。スポーツ車というカテゴリーならこれも愛嬌なのである。姿も声もその辺にいない個性豊かな車なのだから。
「あの、ちょっとすみません。」(私)
「はい。何でしょう。」
「セルボのこれくらいの程度のものって、よく出回るんですか?」
「う~ん…そうですね。これくらい良い条件のものは滅多にないですね。」
「やっぱりそうですか…。」
「それに実はこの車ホントはもっと高く売ってもいいんですが、当店の今月の目玉として格安にしたんですよ。本来なら46~7万円くらいが適正価格でしょうね。」
「…そうですか…残念です。」
やはり中古車は難しい。何が何でもタイミングが重要である。また、セルボのように人気車種でありながら中古車としてあまり世に出ていない車は殊更に難しい。もし仮に商談中のお客がキャンセルした場合と言うことで、私は店員さんに電話番号を伝えた。が…やはり電話が鳴ることはなった。惜しいチャンスを逃し私はちょっとブルーになったが、まだまだ2件見ただけである。気を取り直して更に東へ走ることにした。
3件目の店は同じ松江市内にあった。今度は5分もかからない距離だった。次に目的とする車は、走行距離27000km、4年3ケ月前のものでカラーはシルバー。価格は33万5千円。数字の上では申し分ないものである。…が…色がちょっと気に入らない。このセルボに乗るのであれば何と言っても赤がいい。マツダファミリア、ホンダシティも赤が人気だが、私にしてみればそんな2台よりも赤が似合うのはダントツでスズキセルボであった。これはなんとしても譲れない。ただ、やはり一台でも多くセルボを見て、私なりに市場調査をしておく必要がある。それにこの店はスズキのディーラーなので場合によっては新しくセルボの中古車が展示されている可能性もある。なので、今一つウキウキしないがこの店に来たわけである。
早速、展示場を見回す。軽自動車ばかり30台くらいあるだろうか? 端から端まで歩く。だがセルボはなかった。密かに期待した新しいものも、中古車情報誌に載っていたシルバーのものもなかった。
「ここのも売れちゃったのかな?」
っと思い、しばらく茫然としながら歩いていると、またもや店員さんが出てきて、
「何かご質問があればお答えいたしましょうか?」
まったく、中古車販売店のスタッフは凄い。プロ根性と言うか真面目と言うかとにかくどこの店に来ても『スゥー』っとさりげなく声を掛けてくる。しかも原付のスクーターに乗って来た、いかにもお金を持っていなさそうなグダグダの服装の男子学生である私に対してである。さすがに高度成長期の日本の企業努力は凄まじい。だが、せっかくそう声を掛けられても仕方がない。目的のものがない限り、この店に長居しても意味がないので、
「あの、実はこれ(中古車情報誌)に載っているセルボを見に来たのですが…。」
っとその一言で店員さんを振り切り、店を出ようと思っていたのだが、
「ああ、この車ですか。これなら米子の店にありますよ。」
「えっ。はあ…米子ですか。」
「はい。うちと同じ会社の米子店です。」
「はあ、なるほど。」
「実は一度買い手がついたんです。それで車検も済ますことになり整備をしようとしたら、たまたまうちの整備工場が手一杯だったので2日前米子に持って行ったのです。それにお客様も米子の方だったので引き渡しも米子の方が都合がよかったんですよ。ところがね…米子に持って行って整備始めたところでキャンセルされちゃんたんですよ。」
「ええっ! そんなことがあるんですか?」
「まあ、滅多にないですけどね。ちょっと電話して確認してみますね。」
「あ、ありがとうございます。」
とは言っても、元々私はシルバーカラーのセルボに興味がなかったので、
『そこまでしてもらわなくてもいいのに…。仮にこれで米子に行ったとして「シルバーカラーは嫌です。」って何か言いにくいなあ…。』
っと、そう思っていた。程なく店員さんは事務所から戻って来て、
「お待たせしました。展示スペースには置いていませんが、よろしければ是非見ていただきたいと米子店も申しております。」
「あ…はい…。それはどうも…すいませんお手数お掛けして…。」
「いえいえ。松江店に聞いてきたとおっしゃってください。」
「はい…。ありがとうございました…。」
…もう…なんて言うか…見に行かないといけない状況になってしまったではないか。別にこの店を出て、必ず米子店に行かなければならない義務はもちろんないが、ほぼ国道一本でつながる山陰の土地柄。何と言ってもコミュニティーの規模が兎にも角にも狭い。その狭い地域にある同じ会社が経営するスズキのディーラー。もしこのまま私が希望通りセルボを買ったとしたら、故障の修理など、この先この会社(ディーラー)に関わっていくかも知れない…。まだ学生だった私はそのような理由に縛られ結局米子の店に行くことにした。別に無視してもまったく問題ではないのに、当時の私はやはり若くて純粋な学生だったのだなと我ながら感心する。すっかりオッサンになった今、そのような思考が少しくらいあってもいいかも知れない。
さて、そんな理由で再び米子へ向かう。それはそうと、よくよく考えてみると先程の店員さんもなかなか図太いかも知れない。松江と米子は一括りの経済圏として扱われたりするがそれぞれの中心部の距離はおよそ30km。渋滞がなくても車で1時間程かかる。その距離を原付スクーターの学生に向かって、
「是非、米子のお店へ。」
なんてえらく簡単に言ってくれたものだ。後になってその感覚を少々疑ったが、もうここまでくれば致し方がない。進むのみである。さすがに遠いとは思うが、出雲からだと倍の2時間はかかる。ここまで(松江)来たからにはいかなければ後悔するかもしれないとも思った。
ところで、その決断は正しかったのだ。義務のない無視しても構わなかった誘い、しかも長距離・長時間にわたる移動、しかし結果としてそれが私に幸運をもたらすことになる。
道中、遅めの昼食をトラックの運ちゃん達が贔屓にする飯屋で済ませる。何と言っても魅力は値段とその量。ご飯なら並でも一般食堂の大程度。ファミレスなら倍はあるだろう。しかも大盛りにするのもプラス30円だ。私は390円で大満足の量を平らげた。基本的に人間は満腹になると気分がよくなるものだ。ましてバイクは風に当たるのでなんだかんだ身体が冷える。体温も空腹も低価格で解決したわけだから尚更気分がいい。また、久し振りに見た米子の風景も私を元気にした。
さて目的の米子の店は日野川のすぐ近くだった。3km程行けば河口に当たり、そこは米子の奥座敷『皆生温泉』辺り。境港や大山へ観光目的で行く人々が宿泊することも多い。そう考えると出雲程ではないが、私の育った米子も結構観光地なのであった。バイクを停め店に入ると私を見つけた店員さんが即座に声を掛けてきた。
「松江店からおいでの方ですか?」
なんとバレバレである。確かに原付スクーターに乗ったグダグダの恰好の学生という目印はかなり判り易いと思われる。
「はい。」
「遠いところ申し訳ございません。松江の方ですか?」
「いいえ、出雲です。」
「えっ? 出雲?」
「はい。」
「パッソルで…?」
「はい。」
「いやあ、本当に態々ありがとうございました。申し訳ないですね。」
「いや。まあ、実家は米子なんで…ついでです。」
「ああ、そうなんですか。どうです? 一先ずお茶でも飲まれますか?」
「いや…取り敢えず車を…。」
「そうですね。お茶は後にでもどうぞ。ではこちらに。」
店員さんは私より4~5歳上だろうか。若くて感じのいいお兄ちゃんだった。いきなり『松江からの客』と認知され声を掛けられたせいも有り、虚を突かれたこともあるが私はその店員さんのペースにすっかりのってしまっていた。店員さんによると、この店は新車の販売が主のようで確かに中古車の展示も3台だけだった。一方、松江店は敷地も広いので中古車の販売にも力を入れているらしい。
「どうぞ。こんなところで申し訳ありません。」
案内された場所は整備場の奥のそのまた外にある整備待ち車の仮置場だった。そこに銀色のあいつは居た。
「どうですか? ちょっと年数は経っていますが状態とすればかなり良いですよ。タイヤも山が8部くらい残っていますし、なによりCX-Gです。」
「あっ、すいません。そのCX-Gって詳しく教えてもらえますか?」
「あっ! はい。セルボにはグレードが3つあります。このCX-GとCX-LそれとCXです。CX-Gは最上位のグレードでディスクブレーキが装備されているのはこれだけです。因みにあとの2つはドラムブレーキですからその辺のことが気になる方には大きな問題ですね。またメーターの数もCX-Gだけ6連であとの2つは…えっと…いくつだったかな…? すいません…。また、室内の色もCX-Gは黒、他の2つはクリーム系です。まあ早い話がCX-Gは細部までスポーツクーペとしてのこだわりがあるわけです。CX-Lの『L』はレディス仕様、CXは廉価バージョンという分け方ですね。」
「そうだったんですか。じゃあCX-Gじゃないと面白くないですね。」
「はい。まあ、人それぞれですが、やっぱりそう思いますね。」
そう言えば2件目で見た商談中の赤いセルボのシートに座った時、何か違和感があったのだが、それはメーターが少なかったことと室内の色も明るかったからかも知れない。きっとあれはCX-Lだったに違いない。そうそう…確か前オーナーは女性だと書いてあったしそれに間違いない。…はぁ…危なかった…。やはり無知は怖い。しっかり知識を持っていないと大損をする。もちろん外見は大事だが中身が違うのにそれを知らずに単純に値段で判断していたら大変なことになっていた。このことが分かっただけでも今日は大きな収穫だ。はるばる米子に来た意味があったというものだ。
「あの…エンジン掛けてもいいですか?」
「もちろんです。どうぞ。」
『ギュズヴヴヴヴォーンキュルキュルヴヴヴヴォーン』
セルが元気に回り、すぐにエンジンが回りだした。それにしても落ち着きがない自己主張の大きなエンジン音だ。
「実はバッテリーも新品に交換したばかりなんです。」
「へっ! それって、もしかして。」
「はい。交換した後でキャンセルだったので。」
「はあ…辛いですね。」
「ええまあ。元々あったバッテリーでも問題なかったんですが、お客様のご要望で別料金でバッテリーを新品にしたんですよ。」
「それはちょっとあんまりじゃないですか…そんなのいいんですか?」
「ええ。それがですね。そのお客様、結局新車を買っていただけるようなので、『まあいいか。』ってことになったんです。」
「ああ、なるほど。それなら納得できますね。」
「はい。ということで、この車ホントにお得ですよ! バッテリーも新品になって価格もそのまま33万5千円。」
「あのぉ…。」
「はい。」
「実は今更なんですが。赤が欲しいんですよ。」
「…ふん…赤…ですか…?」
「はい。赤です。」
「シルバーは…?」
「いや何が何でも赤です。」
「でもこれ。掘り出し物ですよ。」
「はい。それは十分理解しました。でも赤じゃないと。」
「う…ん…! それではこの車を赤にしませんか?」
「へっ?」
「赤に塗り替えるのはどうでしょう?」
「あっ…なるほど…でも費用は?」
「幸い小さな車ですから…んん~っ…大体8万円くらいでしょうか。でも、それでもこの車なら全然お買い得ですよ。」
「…8万円ですか…。あの…もう一つ。」
「はい。」
「諸経費は全部でどのくらいなんでしょう?」
「諸々合わせて、やっぱり5万円くらいですね。」
「っということは、33万5千円+13万円ですね。」
「はい。46~7万円ってところですね。」
「…実は予算が38万円なんです。」
「38万ですか? 塗装代が無かったらほぼセーフだったんですね…。」
「はい。なんとかギリギリセーフだったんですよ。でも8万オーバーはちょっと大き過ぎます。」
「んん~っ…。8万ね…。…あの…気休め程度ですが…例えば赤に塗り替えるのを外だけってどうですか?」
「外だけ…っと言うと?」
「例えばドアの内側のこの部分とか内観は元のシルバーのままで、外観だけをペイントするのであれば…そうですね…6万円くらいで収まると思います。」
「6万円ですか…。それでも6万円の予算オーバーか…。」
「そうなりますね。」
「…あのぉ…。」
「はい?」
「値引きはできないんですか?」
「そうですね…この車なんですが…元々安くしている上にバッテリーも換えてますし…ちょっと厳しいですね。思い切って1万円くらいなら何とか…。」
「1万円…あともう少し無理ですか? お願いします…。」
「いや、厳しいですね。しかしこれでも相当お買い得ですよ。」
「それは十分わかっています。でもそこを何とかお願いできないですか?」
「んんっ…そうですね。ちょっと上司に話してみますが、残念ながら今出かけているんですよ。」
「そうですか…それなら残念ですが…また出直します。」
「いや。ちょっと待ってもらえますか? ポケベル鳴らしてみますので、とりあえず事務所においでください。」
「はあ…。」
「とりあえずお茶でも飲んで待っててください。いやコーヒーの方がいいですか?」
「いや、コーヒー苦手なんで、日本茶で。」
ここまで来たら急ぐ用事も無いので、私は事務所でお茶をいただくことにした。店員さんはすぐポケベルを呼び出し、私の座っているテーブルに相対し色々と話しかけてきた。その中で私はどうして車を買う気になったか、また今までのバイトや免許取得の顛末を話した。彼は大そう私の話に興味を持ちまた感心してくれた。私もその反応に気を良くしてしまい、ついつい長話を続けてしまった。そうして20分くらい経過した頃だったか、事務所の電話が鳴り響いた。するとすぐさま女性スタッフが奥のドアから現れその電話を取った。
「奥田専務。社長からです。」
何とその店員(若いお兄ちゃん)さんは専務だった。後でわかるのだが社長の息子だったのだ。まあよくあることではある。おそらく常務は社長の奥さんであろう。そして電話を切った彼によれば社長はあと15分もすれば帰ってくるので良ければもう少し待っていて欲しいということだった。私もまた出雲から来ることを考えれば(まあ、電話でもいいのだが)たかが15分である。そしてその間、今更ながらお客様カルテのようなものを作っておこうということで、私はあまり乗り気ではなかったがそれに応じることにした。住所、氏名、年齢、性別…etc。それにアンケート的な質問とよくある普通のお客様カルテだった。そしてそのカルテをほぼ書き終わったところで社長が帰社してきた。
「いやあ、お待たせいたしました。申し訳ございません。私が代表の奥田でございます。」
私の目の前に現れたその人物はキレイさっぱり頭髪を無くした白い髭の人懐っこい顔のオジサンだった。なるほど。この親を見れば息子も感じがいい人物であるのが理解できる。でもいくら愛嬌のあるその御仁でも、やはり学生の私には『社長』なる人種は特別なものである。目の当たりにし名刺をいただくとどう対処していいのかわからずに緊張してしまった。
「こちらこそすいません。お忙しいところを…。」(私)
「いえいえ、これが私共の仕事ですから。ところであの銀のセルボを見においでになったそうですね。」(社長)
「はい。」(私)
「社長。予算が38万円だそうです。」(店員)
「ああ。それならピッタリじゃないか。」(社長)
「それがその…。」(店員)
それから店員さんは私が出雲から松江の店を経由して来たことや、車のカラーのことなど今までの話を社長に説明した。すると社長が、
「そうだったんですか。いやぁ…ほんとに遠いところを申し訳ございません。しかも原付で…2時間くらいかかったでしょ。」
「はいちょうど2時間程です。」
「そうでしょうね。私も昔カブ(ホンダの原付)でよく走りました。」
「そう…なんですか。」
「はい。(カルテを見ながら)実は私も出雲大なんですよ。」
「ええっ、そうなんですか?」
「はい。私はイスパニア語学科です。玖津木さんは?」
「私はフランスです。」
「そうですか。そこまでは一致しなかったですね。」
「はい。でも彼女はイスパです。」
「ほぉーっ! それはすごい。では私は彼女さんの先輩ですね。」
「はい。まったくその通りです。」
「ところで、網本先生は知ってますか?」
「はあ…イスパの教授の?」
「そう。」
「はい。知ってますが…。」
「実は私の同級生なんです。」
「ええっ! 網本先生とですか?」
「はい。酒飲み友達でした。彼のアパートで朝まで飲んでたこともしょっちゅうありました。」
「へぇそうなんですか。実は私、網本先生とはテニス仲間なんですよ。」
「何と! それはまた凄い偶然ですね。それにしても網本はテニスなんかしてるんですか。まったく似合わないことして…。いやいやそれにしても世間は狭いですね。」
「ほんとに。…あ、でも網本先生なかなかお上手ですよ。」
「本当ですか? 無理に褒めてませんか?」
「いえ本当です。ちょっと自己流ではありますが。」
「そうですか。まあ昔から異常に元気な奴でした。」
「はい。それに気さくないい人ですね。」
「そう言ってくれると私も嬉しいですよ。ところで玖津木さんはご実家も出雲ですか?」
「いえ、実は米子です。」
「おお。それはまたすごい。で、米子のどこですか?」
「三本松です。」
「三本松。すぐそこじゃないですか。」
「はい、もう歩いても大した距離でもないですね。」
「なるほど。そうでしたか…。ああ…いやいや申し訳ございません。すっかりいい気分になってしまって関係のないことを…それにしても奇遇ですね。」
「はい。私も楽しかったです。」
「ではそろそろ商談といきましょうか。ところで玖津木さん。今回は現金でお考えですかそれかローンでしょうか?」
「現金です。」
「一括で?」
「はい。」
「…ところで申し訳ございません。玖津木さんが学生さんなのでご理解ください。んん…こういうことをお聞きするのはなんですが、ご家族の方はご存知なんでしょうか?」
「いえ。この後報告に行くつもりです。」
「…そうでしたか…。」
「何か問題ですか? 親の同意がないと学生には売れないとか?」
「いえいえ。そんなことはありません。仮にローンなら保証人とか色々ありますので念のため伺っただけです。現金一括と言うことなら何も問題ございません。しかし…ということはご両親の援助なしなんですね。」
「はい。だから何とか車が買えるくらいの金額を計算してバイトで全額貯めたんです。ローンにしないで一括で払おうと…。そういうことなので、予算は絶対なんです。」
「なるほど…そういうことですか…。」
それから私はどうして車を買う決心をしたか、息子の専務に続き社長にも顛末をすべて話した。人のいい専務(店員さん)は時折彼個人の感想を挟みながら私の話を美談に昇華してくれた。そして話が終わると社長さんは、
「いやぁ…素晴らしい。気に入りましたっ! 最近の学生さんは良くも悪くも大人しくて、勢いがないというか…なんか残念な感じがしていたんですが、こんな話を聞くと嬉しくなりますね。それにしても頑張られたんですね。」
っと…しきりに感心してくれた。そして社長さんはゆっくりと私の目を見て、
「あのぉ…どうでしょうか…同郷でしかも玖津木さんも彼女さんも大学の後輩、また共通の友人(網本先生)がいる。その上こんな話を聞かされたとあっては私も大出血サービスをしないと格好がつきません。もし今決めていただけるのならペイント、諸経費すべて含めて38万円でやらせていただきますがいかかでしょう?」
何ともビックリっ! 思いもよらない条件が飛び出してきた。私は少々面喰いながら、
「へっ…いや…いいんですか?」
「いいも何も、私も会社の代表です。社長です。もう言っちゃいましたから今更取り消しはしません。どうでしょうか?」
いきなりの掟破りクラスの条件に私は面喰ってしまった。これですべてがクリアされてしまった訳だ。それにこの社長さんは大学の先輩であり、何よりも網本先生の友人である。少なくとも私を騙すような考えはないだろう。しかし人と言うのはあまりに好都合な話をされるとどうしても素直に受け取れないことがある。まして人生で初めて経験する大きな買い物ともなると余計にそう言った作用が働くものだ。まあ、つまり『ビビッている』ということであるが、当時の私のキャパシティではそれも仕方がないことであった。
「本当にいいんですか? あ…ありがとうございます。でも急すぎて…。」
「ふむ。確かにそうですね。でもどう考えてもこの条件はあり得ないくらいの好条件です。こんなチャンスは2度とないですよ。」
それはよく理解している。だがやはり怖い…。
「そうですね…。それはそう思います…。う~ん…ちょっと考えさせてください。」
しかしここで決断せねばならない。とにかく冷静になろう。車の年式も走行距離をはじめとする状態はほぼ希望通り。またグレードも一番いいCX-G。シートに座った時も室内の汚れとか痛みもなかった。もちろん外観も一通り確認したが特に何も文句をつける所はなかったし、カラーも無料で赤にしてくれる。ああそうだ。それもよく考えれば塗装の状態はピッカピカの新品同様と言うことではないか。なにより最大の問題、費用がクリアされている。…もう断る理由が見つからないではないか! あっでも…
「えっと…前のオーナーさんってどんな方だったか教えてもらえませんか?」
「ああそうですね。確かに気になりますね。ナンバープレートは島根だったでしょ。安来町の人で30歳くらいの主婦の方です。実はうちの社員の親戚の方なんですよ。」
「はあ。そうなんですか。」
「はい。ご主人はセダンに乗っておられたようですが、買い物や幼稚園児のお子様の送り迎えのためにセカンドカーとしてお買い上げいただいたものです。」
「それで、どうして手放されたんですか?」
「はい。その奥さんのご実家がご商売をされていまして、最近になりお父様が高齢のため身体が不自由になったとかで、ちょくちょくお手伝いに行かれるようになったそうです。それで荷物の出し入れがし易い車に換えようということになったそうです。」
「確かにセルボはそういう事には向いてませんね。」
「はい。だから当店でアルトをお買い上げいただきました。それでその時に下取りさせていただいた訳です。」
「わかりました。スッキリしました。」
「そういう使い方ですから、とても丁寧に乗られていたようです。」
「…はい。あと、車検は…?」
「車検ももちろんやりますよ。だから2年間はOKです。それも含めて38万円ですよ。もう大大大サービスです。」
いやはや…もう他に選択肢はない…。こうなればもう迷うこともない…。もし仮にこの商談を断ったとしても、間違いなく次の商談の時も同じように迷うだろう。つまり市場調査1日目であろうが1か月であろうが私という人間が購入を判断する限りこの葛藤は変わらないはずだ。そしてたまたま1日目で運命の車とこの社長に出会ってしまっただけなのだ。もちろんこのタイミングが1週間後に来ていればもっと冷静になれたと思うが、これも中古車購入の妙としか言いようがない。私は腹を括り決断をした。
「………うん…うん……うん……はい。わかりました。買います。買わせてくださいっ!」
「はいっつ! 確かに承りましたっ! ありがとうございます。しっかりアフターサービスもさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。」
「こちらこそよろしくお願いします。」
なんと言うことだろう。サイは投げられた。もう後戻りは出来ない。しかし願ってもない好条件であることは間違いない。私は自分の決断をこの短い時間で何度も何度も反芻するように正当化していた。すると社長さんの雰囲気が変わり低いトーンで切り出してきた。
「…ただ…玖津木さん。一つお願いがあります。」
「えっ…何でしょうか?」
な、な、なんだ…。買うと言わせておいてから別の条件を出してくるとは一体どういうことだ…。この百戦錬磨の社長は学生の私の心理をいいように操って何か良からぬ事をしかけてくるのではなかろうか? そう思って身構えていたら…。
「実は網本とは20年くらい会ってないのですが、学生時代に借りた本を未だに返してないんですよ。多分網本は覚えてないと思うのですが、私としては気持ちがスッキリしなかったんです。かといって今更直接本人に掛け合うのも何だかやり辛いものでして…ですので玖津木さん。私の代わりにその本を網本に渡してもらえませんか? それがこれだけのサービスの理由と受け取っていただけませんか。」
少々よからぬ展開を想像した私はちょっと恥ずかしい気分になった…。とてもファンタスティックな話が飛び出してきた。こんないい話のお手伝いができるのだ。断るどころかお願いしてでも受ける価値があるではないか。私はもちろん即答して、
「はい。喜んでやらせていただきます。」
「本当にありがとうございます。では商談成立ですね。」
その後の手続きは息子の店員さん(専務)が担当してくれた。社長さんは何度も頭を下げながら事務所を出て次の仕事に出かけて行った。
「ところで玖津木さん。塗り替えのことなんですが。」
「はい。」
「赤ですよね。」
「はいはい。」
「どんな赤がいいですか?」
「えっ? どんなって…?」
店員さん(専務・息子)は棚からカラーサンプルを持ち出してきて私に提示した。
「セルボのオリジナルカラーの赤…となると…えぇ…っと…ああ、ありました。この色なんですよ。」
「ああ、はい。」
「これと同じにされますか?」
「え…? と…言いますと?」
「ああ、すみません。玖津木さんは初めての車ですからね。説明が足らなくて申し訳ありません。つまりですね、この中(カラーサンプル)から好きな色を選んでいただけるんです。」
「ああ、そうですよね。変なカン違いしてました。好きに選んでいいんですよね。」
「はい。新車を選ぶのと違いますから。」
「いや、実はセルボの赤って、ちょっとオレンジ色っぽいというか…と物足りない感じがしてたんです。もっと目が覚めるような赤だったらいいなと思ってたんです。」
「そうですか。では…これはどうでしょう。」
「ああ! いいですね! こんな感じがいいです。」
「実際に車に塗った場合はですね…あっ、ちょっといいですか? こちらへ。」
と言って店員さんは私を再度整備工場に連れて行った。
「この車は先程の赤とほぼ同じ色ですね。」
「ああいいですね、これ。この赤。」
「確かこの車の赤よりもう少し強い感じになると思います。」
「それならバッチリです! 文句ありません!」
いや…なんと言えばいいのであろうか。別に受け入れられる程度ではあったが事実メーカーのオリジナルカラーの赤にちょっとだけ不満があったのだ。これ程の好条件の上、通常では解決しにくい問題までクリアされてしまったのだ。やはり今日決めてよかったのだとしみじみ感じた。
スズキセルボを見初めてたったの1日。先ずは情報収集だけのつもりで出かけてきたのにもかかわらず、僅か1日、その日に車を買った。パッソルにギターとミモちゃんを乗せ雨の日に不細工な顔して『車買うぞーっ!』と決心してからは約7か月強、200と10日以上。それだけの行程(日数)を掛けてバイトや免許の試験を経てきたのにもかかわらず…最大の目標である車の購入に費やしたのは僅か1日。いくらディーラーの社長さんと色々な偶然が重なったとは言えあまりにもあっさりと事は決したのであった。しかし、私の気持ちは晴々していた。何より色んな意味で納得できた。帰りの道すがら、バイクに乗りながら私は何度も叫んだ。
『うっしゃーぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!』
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