大学のイベント

【 1982(昭和57)年10・11月 20歳 】



 出雲電子のバイトを始めて数日。私の睡眠時間は激減した。いくら若いとはいえ体力に少々の影響は出る。またこの時期、私の限られた体力は更に削られるようになる。その要因は大学祭だ。前にも書いているが、出雲大学は田舎の小さな大学で自治会組織がまとまっていて、各イベントに積極的に参加する学生は多かった。そして私はと言えば、どっぷりとそれらに浸かり楽しんでいた方だ。この大学祭こそがなかなか都会では味わえない出雲大学の特殊なカラーが出るイベントである。それは、クラブ・サークルの連中が模擬店や発表会をすることは勿論ながら、我が出雲大学では各学科がコンテストに臨み賞を争うのである。その内容は主に2つで、一つが神輿のパレードともう一つが外国語劇であった。
 神輿とは言っても宗教色はなく、各学科で自由に製作した造形物を大学祭実行委員会から支給される4本の丸太で組んだ井桁の上にのせたものである。大学祭初日には各学科がその神輿を担ぎ大学から出雲大社の大鳥居までの約2.5kmを練り歩き、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)に見てもらおうというもの。そしてもう一つが外国語劇。これはその通り各学科が専攻語での語劇を市民ホールで披露し出来栄えを競うものだ。これら2つの準備のため、時間と労力に差はあるものの、ほぼすべての学生が何等かの形で大学祭に係わることになる。
 そしてフランス語会話サークルに所属している私は、フランス語劇に出演することになる。約1カ月、私は日曜を除くほぼ毎日、語劇の練習に励む。23時開始のアルバイト。その直前までの仮眠時間が著しく減ってしまった。それでもバイトは予定通り週4・5日ペース。寝不足この上ない。
 そう言えば、とある日のことだった。3限の授業(午後1時~2時半、一般教養)に出席したのだが教室で眠ってしまい、私はそのまま午後8時頃まで気がつかなかったことがある。確かその教室は4限の授業にも別の一般教養に使われていたはずなので、私は関係のない授業で終始眠っていたことになる。はたして教師はわかっていたのだろうか? しかしこの約6時間。誰にも起こされなかったとはいえ、よくもまああんな堅い机で寝ていられたものだ。
 それにしても眠い…ひたすら眠い…日々だった。でもミモちゃんの笑顔を思い出して頑張るのであった。


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