羅小黒戦記見てきました。

 特に前知識入れずに、観に行ったんですよ。
 字幕版がやっていた頃(吹替まだされていない時期)にすでに見ていた妹の激推しがあって、きっと見て損のないアツい映画なんだろうなと思ってはいました。(ちなみに妹はタイバニやプロメアが大好物です。)

※ここから、大いにネタバレを含みます。

 観てきました。
 主人公のシャオヘイ(小黒。黒猫の姿の妖精)のかわいさが、もう、想像のはるか斜め上でした……!! 
 もう何なんでしょう、あのもちもちキュンキュンな、かわいい生きものは!! 
 猫の姿のときは顔の8.5割から9割が「まなこ」なんですけれど、その「まなこ」が背景の暗い場所に行くと際立って、「生きてる!!」とダイレクトに伝わってくるんです。そしてもう、表情がまあくるくると変わるくるくると! めまぐるしくその大きな「まなこ」の表情が、わっかりやすく変わるんです。警戒、怒り、そして「えっ……」という見開かれたまなこ……腕をさしのべて抱きしめたい……。
 先入観を持たないようにと公式ページすら見ずに行った結果、どうしてか私、数百年前の中国が舞台だと思い込んでいたんですよね。日本でいうなら室町とか、戦国時代くらいだと信じて疑わずに見始めていて――冒頭で、ブルドーザーが映った時には頭のなかが「????」となりましたけども。
 ざっくり申し上げますと、テーマは、人間と妖精(≒自然)の共生・共存だと思われます。
 豊かな森でぬくぬくふくふくとしあわせに過ごしていたまだ幼い妖精のシャオヘイが、人間による開発のために森の木々は切り倒され、地は穿たれ、棲み処を追われてしまうところから始まる、彼が自分の中で答えを見つけるまでのロードムービーといいましょうか、人間を憎む妖精VS人間との共生を望む妖精(人間含む)のバトルアクションといいましょうか――うん、どっちも、ですね。

 随所に、ジブリの「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」へのリスペクトやオマージュを感じました。森の木の精のコダマとか、音楽の出だしとか。きっとこの映画の作り手さんたちが子どものときに触れたたくさんの作品へのリスペクトと愛が込められているに違いないです! あと個人的には、海外のファンタジーノベルで『霧の落とし子(ミストボーン シリーズ)』というのがあるんですけれども(私とっても好きなんです、めちゃくちゃ泣きました)、このシリーズ作中では、金属を操ることができる能力者たちがすっさまじいバトルシーンを繰り広げるんですよ! 屋根を引きはがして敵にぶつけたり杭を飛ばしたり。金属性のムゲンのバトルシーンを見て『霧の落とし子』を思い出し、「あっ、これ進〇ゼミで見たとこだ!」な気持ちになりました。作り手さんの中に、ミストボーンシリーズリスペクトの方がいらっしゃらないかしらん。


 シャオヘイはもちろんはじめ、人間を憎みます。自分をあの豊かで優しい森から追い立て、自分の「うち」を奪った人間に復讐したいと思っています。
 逃げまどい、人間の生活圏から食べものをちょいちょいかっぱらって食いつなぎ、なんとか日々を過ごすシャオヘイが、やっとのことでふたたび手に入れた優しい同族(妖精)の仲間たちと、「新しいうち」……。木をあやつる妖精の青年・フーシーに「これからここが君のうちだ」とふっかふかの藁敷きのあなぐらに案内されて、その寝藁に飛びこんだときのシャオヘイの嬉しそうな顔と言ったら!!
 しかし「新しいうち」と仲間フーシーたちと、シャオヘイは、ほんとびっくりするほどすぐに散り散りになってしまって……。

 もうシャオヘイがかわいそうで、あのあったかくてもちもちでふにゃふにゃのあの子からなんでそんなに奪うんだ!と、胸が苦しくて。(いや、シャオヘイに触ったことないんですけども、絶対あったかくてもちもちでふにゃふにゃに間違いないです。)
 シャオヘイが新しい仲間と新しいうちを失うきっかけを作ったのが、強すぎる人間(道士っぽい感じで、仙術的なやつのものすごい使い手)の、ムゲン。このムゲンの表情筋はほとんど仕事をしないので何を考えているかわかんないですし、ひたすら強いのでシャクだしで、捕まってしまったシャオヘイは隙あらば逃亡しようとします。……瞬時に捕縛されちゃうんですけどね。その逃走のあきらめなさ、無謀さ、めげなさが、もう本当にシャオヘイで、シャオヘイで……。かわいい、めちゃくちゃかわいい。この逃げ出したり逃げようとして海に沈みかけたりするシャオヘイを、ほっとけばいいのに(いやぜったいよくないけど)律儀に何度も何度も、ムゲンは助けてくれます。最初は、逃げ出さないように捕縛していたと思っていたのに、途中から、シャオヘイの安全のためにつないでいるのでは? と思えてくるくらいに、ムゲンの心遣いが伝わってきます。とりあえず、ムゲンが超不器用な人なのはよくわかりました。仕事はすさまじくできるけどコミュ力ひかえめ系ですね。
 本当に丸太を組んだだけのイカダで海を渡る、シャオヘイとムゲン二人だけのロードムービー……
 人間が生活する陸地に到着してから、不穏さが増してきます。

 ムゲン(共生派)とフーシー(妖精だけの理想郷派)。
 どちらが善でどちらが悪という話ではないし、もう事態はどうしようもないところまで来ている(人間をすべて滅ぼすことはできない)という現実と、人間に侵されない妖精だけの理想郷がほしい・故郷に帰りたいという思いと……どちらも否定できない。
 だけれど、人間だってむやみやたらに開発をすることが人間の発展のためと信じられる時代は終わったし(環境汚染、温暖化、禿山や土地がやせたことによる洪水、地盤沈下等がその結果として起こるものと、人間も学習したのだから)、妖精も人間が作り出したものを楽しんで利用したり、街中で暮らしたりしている…………山中で暮らす鳥だけが野鳥かというとそうではなくて、人間の家の軒先で子育てをするツバメや、田んぼを楽しみにしているスズメだっているのと、似ていますよね。
 フーシーたちとちりぢりになってしまったシャオヘイに、ムゲンはいろいろなものを見せ、触れさせてくれた――「お前はこうすべきだ」「こうしないといけない」と言うことはしなかった。何が悪で、何が善だということすら言わなかった。「善悪くらい分かるよ」といったシャオヘイに、「よかった、信じよう」という意味のことを、ムゲンは返事しただけで……。
 きっと、シャオヘイがフーシーたちの側に戻ることを選びきったのなら、それすらもムゲンは否定しなかったんだと思うんです。シャオヘイのことがとてもかわいく思えてきたところなのでムゲンとしてもシャオヘイが向こうへ行ってしまうのは寂しいけれど、それでも、強く引き留めることはしなかったと思うんです。きっと、「お前がそう決めたのなら」「お前がそう望むのなら」と、行かせてくれたんだと思うんです。それが――選択をさせてくれる、選んだことを尊重してくれるのが――ムゲンのすごいところ。
 シャオヘイも、だんだんそういうムゲンのすごいところを感じ取って……「こいつは人間だけど“悪”じゃない」「“悪”ってなんだろ」と、考えるようになったのだと思います。

 とりあえず、この映画は、「かわいすぎるもちもちの黒猫にほだされていくひとたちのはなし」だと思いましたよ! 
 妖精の森のお兄さんたちだって、ぜったいシャオヘイのこと可愛いと思っていたし、コイツのいい兄貴分になってやるぜと、思っていたに違いないです。
 フーシーも、シャオヘイにひどいことをしようとか、シャオヘイの珍しい能力を利用しようとか、そんなこと思っていなくて、ただ人間を憎む同志として――人間のせいで棲み処を奪われた同朋として――当然のように一緒に戦ってくれるだろう、力を合わせて妖精の理想郷を得る手伝いをしてくれるだろうと、信じて疑わなかっただけだと思うんです。
 だからあのもちもちでかわいい黒猫が、別のヤツになついて(フーシー視点)、フーシーがやったことを嬉しくない、僕よろこばない、と言われたとき、フーシー、ものすごくショックだっただろうな……。
 もちもちでかわいい同朋のはずのシャオヘイを傷つけてしまった、「僕はそんなことよろこばない」と言われてしまったことで、フーシーは、実はものすごい自己嫌悪に陥ったと思うんですよ……。
 それで、もう人間を憎み続けるのも、戦い続けるのもつかれてしまって、シャオヘイに嫌われると実感するのも嫌で、「あのような」結果を選んだんじゃないかな……。

 とりあえず、もちもちのかわいい子猫は最強ですね!!!

(映画館の物販でパンフレットは売り切れだったので、アニプレックスさんの通販で、パンフ頼みました。早くみんなの名前の正しい表記や、専門用語の正しい表記が知りたい……。)

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