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それでも這い上がる

子供が産まれてから私が一番恐れてきたのは、
子供の発熱だった。

仕事を休めないし、
半休など自分の都合に合わせて融通を効かせることもできない職場のため、
とにかく困るのだった。

子供も心配だが、
なにより仕事との融通が無理過ぎて毎回追い詰められる。それが来ることにとにかく怯えていた。

もっと言うと、毎度毎度その度に
人の冷たさ、周囲の理解の無さ、
人間としてではなくロボやただのコマとして職場のソコに配置され働きつづけるしかない自分の実は奴隷的な状況っていうものを突き付けられること、

あと、子どもより職場に気を回して子どもは二の次にする、私の親としての不甲斐なさを再確認させられることに
とにかく疲れていた。

それでも回を重ねるごとに、
いくらか自分により近い所にいる人は、
なかば諦め、受け入れてくれたり、

上の人も、
私が根本的に求めてるものとは違ってたりするけど、
融通をきかせてくれたりとか、するようにもなった。

私もパターン毎にルーチンを見つけて、
考える量を減らして最低限の労力でさまざまな手配ができるようになった。





しかし、
ここ最近思う

子どもが赤ちゃんではなくなったからなのか
コロナ騒ぎ以降の世の中の変化によるものなのか。




(ああ、こんなことは大したことじゃない)


それはもともとの私は知っていた事であった。




大丈夫なのに、
全然大丈夫なのに、

すごく小さな世界で世間を気にして巻き込まれて、
謝らなくていいはずのことを謝って、
なぜか自分を責めて、

どんどん周りにチカラを預けて奪われて。

いつのまにか悪いことしてるみたいになってる。



それで得するのは私を便利にしたい人で、
それで気分が良くなるのは、私のような人生を選びたくても選ばなかった人、私が幸せそうだと正直イライラする人達。



(私は私の人生を生きているのであって、それ以上でも以下でもない。)

あたりまえに、もともとの私は知っていたことだ。




他人の未解決な気持ちのサンドバッグになる暇は無いし、それに配慮してさじ加減することに疲れ果ててる場合じゃない。

そんなあたりまえのことが今よくわかる。






もともと知っていたことを、

悪条件の中わざわざ旅に出て
嵐に巻き込まれ見失い、

命からがら逃げてきてまた知る。




生きるとは、
なんと遠回り…
わざわざ苦しみ、悲しみ。



でもそれでもまた知りたくて、知りたくて、

生まれてきたのかなあ、私は。










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