治水哀話 東海目線

宝暦治水哀話

本州のほぼ中央濃尾平野(愛知岐阜三重)にまたがる木曽三川(木曽川長良川揖斐川)の河口 県境堤防に当時の農民達が治水工事の犠牲となった薩摩義士の霊を慰める為に植えた千本松原と治水神社がGS。
今から265年前 宝暦の治水工事で出来上がったその堤防は今日の三川分流工事の基礎となっている。戦国時代養老山脈 美濃山地の山々は年々きり荒らされて、木曽長良揖斐の三川による水害は次第にひどくなっていった。
伊勢美濃尾張(尾張はお囲い堤)の国境 輪中集落に住む里人は常に水魔におびやかされ、農作物は何ひとつ実らず、惨めな生活を送っていた。
農民たちは洪水を防ぐ堤防を作って欲しいと何度も幕府に願い出た。
その頃幕府にはそれだけの力もなく、なかなか聞き入れられなかった。
しかし、とうとうこれを捨てておけなくなった徳川幕府は外様大名(加賀百万石、薩摩七十七石、御三家尾張六十二万石)の勢力を抑える意味も含めて、何のゆかりもない海山幾百里離れた九州薩摩藩にこの治水工事を命じた。
このような工事を命ぜら、薩摩藩と致しては自分の藩の財力を弱めることになるので困った。
ところが時の家老平田靱負は
‘“治水の対象は大君の国土であり、三州に住む農民である”
と励まし、遂にこの難工事を引き受ける事になる。
総奉行平田靱負を中心にした薩摩義士達が到着したのは宝暦四年(1754)2月9日。
思いのほかの大工事、幾多の難工事の末、八分通り完成してホッと一息するのも束の間、たちまち襲う洪水のため苦労の結果も水の泡になったことも幾度か、その上激しい圧迫に耐えかねて自ら命を絶った者も出た。
そのように辛い思いをしながらようやく宝暦五年五月、正味わずか一年足らずの間に見事堤防を仕上げた。
江戸から検分に来た幕府の役人も驚くほど、見事なできばえだった。
当時この成功に驚きの目をみはり、心を打たれた人、喜んだ人達が続々とやって来て見物人で大変賑わった。
今日でも堤防はビクともしない。
総奉行平田靱負は北伊勢大神宮と仰がれていた多度神社を一方ならず信仰し、親切・努力・堪忍・の三つを神前に誓いご加護を祈られて三二九ヶ村の人命と財産を救い守る大工事をこのように立派に完成させた。
五月二十二日最期の検分が終わると、平田靱負は長い苦しみから解かれ、晴れ晴れとした明るい顔に生まれ変わった部下たちを故郷に帰した。
そして、一年余りの苦しい記録を振り返った時、血の滲むような労働、血が奔流(ほんりゅう)するような怒り、更に忘れられない五十四人の割腹者、三十一人の病死者、予定費用をはるかに上廻った工事費、思い出す全てが靱負の心を強く打った。
それから、一切の責任を感じた総奉行平田靱負は遂に自分達が心血を注いで築き上げた堤防の上にムシロを敷き、藩主島津重年公に深くお詫びをした後、切腹して果てた。
時に宝暦五年五月二十四日。
『住みなれし里も今更なごりにて 立ちぞわずらう美濃の大牧』
と一首残し八十余名の部下の後を追い働き盛りの五十二才だった。

これほどの義士の事跡がなぜか150年もの間埋もれていたが、明治三十三年になってようやく治水碑が建てられ大正五年には平田靱負に従五位上を贈位(ぞうい)。
治水神社は平田靱負一柱を祭神に昭和十三年完成。
昭和二十九年五月には慰霊200年祭。
堤防工事は予定の三倍近く四十万両かかり、現在のお金に換算すると100億円。
薩摩藩が借金が多かったのもうなずける。幕末には西南戦争の西郷札など尾をひく。

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