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光のほうへ!ネガティブの攻略法

脱ネガティブモードのヒントになれば!

自分にとっての「デフォルトの平常モード」と思ってたモードが、しっくりこなくなってきた。なんか、この「平常モード」の中身をよくよく見てみると微かな焦立ち、抵抗感、スネ感、フラストレーション、我慢、緊張、不安、とかを含んでいる。

楽しくて、ワクワクして、どこからともなく湧いてなる自信と、スッキリ感、明晰さ、希望、嬉しさ、安心感…そういう感覚に満たされる時間を味わうようになると、こっちが断然わたしの「本来のモード」で、こっちをデフォルトにしたい!と思う。

ネガティブを含んだモードにいるときは、ネガティブモードにいることも自覚できなかったり、自覚したとしても「これしかない」「これ以外ない」と思うようになる。そこから抜けたい、という微かな気持ちがあったとしても億劫で仕方ないし、手がかりなんてどこにもないように感じる。でもそれはネガティブモードの持つ仕組みが作動してるだけで、その仕組みを認識することが1番の突破口になる気がする。

「一度沼るとなかなか抜けられない」という話をつい先日聞いたので、「沼」の仕組みとそこから出るコツの紹介をしたい。この世はある意味RPG。私たちがプレイしてるこの世界の仕組みを知ると断然攻略がしやすいし楽しくなる。ネガティブモードを攻略するのに、「ネガティブモードにいることを自覚する」がまず大事だとおもう。この記事では、ネガティブモードを自覚するポイントとそこから抜ける方法について紹介したい。

沼(ネガティブモード)に入ってることをみつけるポイント

●「これしかない」「これ以外に選択がない」という閉塞感のような感覚。(この閉塞感そのものがネガティブモードにはまってることのシグナル)

●どんな言葉が脳内に流れているか、どんな感覚を感じているか。楽しさ?無力感?安心感?不安?ポジティブな感覚?ネガティブな感覚?自分のモードを知る。(自分がネガティブモードにいると分かったとしても、そのことについてジャッジしないのもポイント。ネガティブだとしてそんな自分をディスらない、受け止める。息して生きてるだけでもう素晴らしいから!!!!)

ネガティブモードは、ネガティブモードを持続させようとあれこれ作動する。その作動パターンを知っておくとよいと思う。

ネガティブモードの作動パターン

●ネガティブモードはひっそり作動する。それが作動してることを気づかせない(なので、作動してることに気づいた時点でそのモードの解体に一気に近づく)
●自分を責めさせる、自分に無力感や無価値観を抱かせる(それは幻想なのだが)
●そのネガティブな考えをあれやこれやの方便で正当化する(このモードを脱したらもっと怖いことが起こる、と思わせたり)
●このモードから出るとお前は死んでしまう、と言い聞かせてくる(脱出しようという試みを折ってくる。脱出することへの恐怖を抱かせる)

ネガティブモードから脱するのに助けになる方法(フォーカスを変える編)

●気をそらす(ネガティブモードのときは特定の狭い領域の脳神経だけを使ってそこのループにはまってる感じ。そこに集中している気を逸らす。もっと広いところに出れたら大成功)
●外に出る、散歩する、運動する(外の新鮮な空気と空と、体感は大きな助けになる)
●好きな音楽を聞く(良いビートは助けになる)
●お風呂に入る、シャワーを浴びる(水に流す。とてもサッパリする)
●ほっとすることをする(カフェ行くのが好きならカフェへ、自転車好きなら自転車)
ネガティブモードに注目しない、エネルギーを注がない、というのは一つ大事なポイント。

ネガティブに向き合ってみる編

でもほんとに沼ったときは、そうやって自分が楽しくなることを全然したくないと思ったりする。動けない、と思ったりする。そういうときは逆に自分の中のネガティブに向き合う良いチャンスでもある。
●その時脳内に流れている言葉を口に出してみる/紙に書いてみる。ぼやく、嘆く、愚痴る。
●「そういうことを言っている私」であることでなんらかのメリットを得ている。何かもっと怖いことに直面しなくて済んでいる。何かをしなくて済んでいる。「この状態を私は選んでいる。これを選ぶことでメリットを得ている」とすると、私はどんなメリットを得ているのか?これを選ぶことで何を避けることができるのか?
↑この問いかけをすることで、自分が自分に課している制限に気づくことができる。あるいは、深いネガティブな信念(真実ではない、信念)にたどり着くことができる。

信念とは、自分が繰り返し考えている思考が積み重なったもの。
多くの場合、「私には価値がない」という無価値感や「私の存在は罪である」という原罪感の信念が根っこにある。「無価値感」も「原罪感」もネガティブシステムのエンジンでありネガティブ思考そのもの。「無価値感」や「原罪感」を感じる私でいるためには、私はいったい私に対してどんなラベリングをしているのか?私のことをどういう存在だと定義しているのか?私に対してどんな「こうであらねば」「こうであるべき」を課しているのか?と聞いてみる。

生きているということ

本質的に価値のない存在はない。ものすごい数の可能性の中からこの世界に誕生した生命に、「無価値」ということはありえない。一人では誕生できなかったし、「生きている」というこの訳のわからない(素晴らしい)状態を生きている存在に価値がないということはない。自然界は無駄なことはしない。無駄なものは作らない。

存在そのものが「罪」という存在もない。生まれながらの「悪」というものは存在しない。この世界に誕生するのに必要なのは本源的な愛と光。あり得るとしたら「元々もっている愛と光から遠ざかった存在」であり、それは別に「悪」ではないし「罪」でもない。ただの「そういう経験」である。「原罪感を感じたくて感じている存在」は存在しても、「本質的に罪」な存在なんてさいしょから存在しない。

ネガティブモードは、宿主に「無価値感」や「原罪感」を抱いてもらってないと存在できない。なので、ものすごく必死になって、(その生存をかけて)宿主にそれを信じさせようとする。「『自分は価値のある存在なのでは』、だなんて探究しようと思うなよ。本当に価値がないと分かったらお前、生きていけないだろう?」と、言ってくる。
そのささやきが聞こえたら、「あ!ネガティブモードが頑張ってその存在を維持しようとしてる!」と言ってみる。「これは、まやかしだ」と、勇気をもって、その先に進んでみる。

ネガティブまっただなかの時に見える光をたどる。ネガティブ信念は「その光は日没の光だよ、そっちにいったらあかんよ」というが、それもまやかし。見えているのは、夜明けの光。

勇気を出して進んだら、自分の中にある価値に、光に、出会える。

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