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患者さんを見てて、どこまで頑張ったら楽になれるんだよって思うときがある


医師からの説明があって
胃瘻をつくるかつくらないで悩んでいた家族が
胃瘻をつくる選択することがある。

つくる選択も作らない選択も
正解はないし
間違いもないんだけど
「わたしは」悲しい気持ちになったりする。
 
「またサクションしたり、
 (鼻から管入れて痰をとること)
 身体が拘縮してきたり、
 胃の管を抜くのを予防するためにミトンしたり
 そんな患者さんが増えるのか」
  
と悲しくなる。


たとえ本人が
胃に穴をあけたくなくても
もう話せなくて
意識がないとき
 
家族がその判断をしなければならない。
自分の親を、これ以上がんばらなくていいって思える人たちはあまりいない。
 
もちろん、
その選択をする人もいなくはないけども。
 
言葉は違うかもしれないけど
「死を選べない」家族って多い。
 
とてーーーも多い。
 
死を選ぶっていうのは言葉が過激だけど

私たちはいつか死ぬわけで
どこまで頑張ればいいんだよって
どこまで頑張ったら楽になれるんだよって
思うことが「わたしは」多い。

 
「苦しかったら、眠らせてください。
 いたかったり苦しいのが本当に嫌なんです」

という患者さんがいた。
 
薬が足りなかったり
点滴の調整が甘くて鎮静から起きてしまって
苦しんでいるのを見て、
 
ちゃんと意思表示をして
家族にも理解が得られているのに、
苦しい思いをさせてしまって申し訳ないなあと思う時があった。
 
希望をしっかり実現するのには、
医療者のスキルも必要である。
 
 
これが正解っていう最後のときはない。
でも、わたしはこうでありたいって思うことはあっていい。

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