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火事の思い出(昭和3年)と姉の人生

昭和三年、姉が四歳と二ヶ月、私が一歳半の時だった。
我が家は大火災を起こし、母屋、味噌部屋、納屋(農機具を入れておく小屋)、米倉などを消失し、財産の殆どを失った。
この大火災の原因が、姉の火のいたずらだったのだ。しかし四歳の幼い姉の罪にすることはできない。母や祖母の「子供の監督不行届き」という理由の方が妥当だと思う。でも、姉は成人してから、この事に大変悩んだ。一家全員の運命を狂わせてしまったのだから。

芳賀の田舎では昔、どこの家でも自家製のお味噌を炊いて、何にでも使える調味料として常備していた。我が家には、山形から働きに来ていた若衆が三人(男二人、女一人)いて、大勢だったので、お味噌も沢山炊いたのだそうだ。その味噌部屋が母屋の隣にあった。そこで、大きな鉄のお鍋で大豆を煮ていた時の事だ。そこには必ず交代で火の番をしている当番の者が居る筈だったが、丁度昼時で、母屋の方から美味しそうな煮物の匂いや味噌汁の匂いが漂ってきたので、若い使用人はお腹が空いていたのだろう。沢山薪をくべておけば、御飯を食べている間ぐらい大丈夫だろうと、大きめの薪をかまどに詰め込んで、火の側を離れた。
その間に、なぜか四歳の姉がやって来て、誰も居ないので、お手伝いするつもりだったのかもしれない。すぐ横にあった松の枯枝をかまどに入れたら、パチパチッと爆ぜて、火の粉が足先に飛び散った。びっくりして、持っていたもう一本の火の付いた枝を放って、逃げ出したのだそうだ。運悪くそれが燃え易い付け木の束に落ちて、忽ち燃え広がったのだ。

姉は、母屋のキッチンで食事をしていた祖母や若衆に「火事になるよ・・・」と告げたのだが、誰も本気にせず、「何を言っているの、この子は?」という程度にしか受け取られなかったのだ。姉が泣きながらでも伝えたら、或いは火の当番だった者がハッと気が付いたかもしれない。しかし、慌てた様子もなく細々とした声で言ったのだろう。誰も本気にしなかったのだ。姉はもう報告したつもりで、安心して祖母のそばで食事を始めたのだそうだ。その間に火は燃え上がり、火柱になって天井に届いたので、母屋の二階が先に燃え始めたとか。下のキッチンで食事をしていた人達は暫く気付かなかったらしく、二階から煙が漂ってきていたからやっと気付いて、慌てふためいたようだ。その時にはもう遅かったのだ。

当時の田舎には消防署などはなかった。
村の消防団の人達が駆けつけてくれたのだが、秋の稲刈りも済んだ田んぼには水もない。門の外にあった用水路からでは、手押し車のような小さな放水車だったから、母屋までは水が届かなかったのだ。近所の人達も駆けつけて下さって、竹林から青竹を切ってきて、当時九十歳近い曽祖父が中風で寝ていた隠居所だけでもと、青竹で囲んで防火してくれたので、隠居所と風上にあった土蔵だけが残ったのだ。私はよちよち歩きの一歳半だったから、母に背負われて水のない田んぼを走り回っていたとか。後で聞いた話である。

後日、警察の方が調べに来た時、主に質問されたのは祖母だったようだ。なぜなら最初に姉の報告を受けたからだ。
成人してからその時の様子を歌った姉の短歌

 豆を煮るその火が間もなく大火事になると誰も思わざるなり
 かまどより吹き出す炎の激しさを告げるが幼兒我を信じず
 音を立てて松の木燃ゆる激しさは花火の如く火の粉が飛べり
 火事の原因調べを受ける祖母の傍離され警官とおり投げ遊ぶ
 焼け焦げし人形抱き焼け跡に泣き居し我の記憶も遠く
 幼き日火災を起こせし過ちが我の心に張り付きさらず

焼失後、私達は隠居所の土間に床を張り、十畳の間を作って雑魚寝していた。火事の後片付けに三年ほどかかったと記憶している。そのうち母は、農業が嫌いだったから、早速宇都宮に引っ越して借家住まいを始めた。父も真岡の税務署から宇都宮の税務署に転勤した。祖母は病人の看病で一人残った。可哀そうであった。又祖母はもっと大変な決断をしなければならなかった。二人の男の若者には土地を分けてやり、小さな家を建てて自立させた。女の人には、お嫁入りの金子を与えて、山形に返したのだ。

私達一家は、宇都宮に来てからは心機一転し、火事の話は一切しないよう父も母も心がけていた。母にとっては「子供の監督不行き届き」という汚名がチラチラと脳裡をかすめるので、忘れようと努力していたようだ。私は赤ん坊だったから、覚えていないので平気だった。でも今頃になって、火災がなかったら或いは豪農のお嬢様で、苦労しないで済んだかもしれない、と残念に思うこともある。

姉は成人してから、短歌にもあるように、大きな心の負担になり、何とかして自分の働きで両親に家を建てて、お返ししたいと心に誓っていたようだ。
でもその頃の時代は、日支事変から端を発した戦争が、大東亜戦争に発展し、更に第二次世界大戦にまで拡大して行った。まさに昭和の時代は戦争の歴史だった。
間もなく、アメリカのB二九戦闘機が東京に飛来し、宇都宮にも飛んでくるようになった。宇都宮には関東武士で有名な百十四師団があり、中島飛行場があったから、狙われたのである。昭和二十年二月十六日の空襲で、市の中心部は壊滅状態になった。家を建てるどころではない。明日の命さえ危ぶまれていた。

 昭和二十年三月九日・十日 東京空襲 江東地区壊滅
 昭和二十年三月十四日 大阪空襲 大阪市内壊滅
 昭和二十年八月六日 広島に原爆投下
 昭和二十年八月九日 長崎に原爆投下

ついに終戦になったというわけだ。
当時はひどい物資不足で、食糧も衣類も日用品も配給制度だった。昭和二十二年は配給だけで生活していた。
山口良忠という判事の方が栄養失調で亡くなったという記事が新聞に出た。この人はとても頑固な人で、国が定めたのだからと、闇米などいっさい買わなかったそうだ。

そんな戦後を切り抜け、どうやら生活が安定してくると、又姉は昔の思い出に悩まされ、早く何とかしなければと、結婚もせず働き続けた。
そのうち父は、昭和二十九年に心筋梗塞で突然死した。五十七歳だった。
母も血圧が高かったので、眼底出血で左目を失明して、県庁を退職した。
その後母は、昭和四十二年、七十歳の時、S状結腸癌になり、国立病院で手術をした。当時は、術後の生存率は五年ぐらいと言われていた。
姉は焦った。丁度その時、従兄弟のKM君が郊外に大きな邸宅を建てて引っ越したので、その跡地を譲ってもらうことができた。グッドタイミングであった。四十五坪の狭い土地だったが、祖母も父も亡くなり、母と二人きりになってしまったのだから、丁度よいのではないかということで、早速OT工務店に依頼し、三LDKのマンション並みの家を建てた。姉は芳賀町に建てるつもりだったらしいが、芳賀は遠くて不便で、とても宇都宮の税務署まで通うのは無理だったと思う。本当に良かった。

 幼き日我の起こせし火事の罪今ようやくに返す家建てり

と歌って、やっとホッとしたようだ。
時に昭和四十四年の春だった。
母はこの家に十四年住んで、八十三歳で亡くなった。
姉の波乱万丈の人生だった。責任を果たした姉は、それからの余生を旅行三昧に過ごした。

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