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成長という名の、後退


人と話しをする。
その日常的な行為が、昔はとても苦手だった。

自分に対する自信など、これっぽっちも持ち合わせていなかった頃。私は人との適切な距離感が分からなくて、近づきすぎては後悔し、遠すぎては疎外感を感じる日々を過ごしていた。きれいな言葉を栄養にして育ってきた人間ではなかったから、自分の口から紡ぎ出される言葉が誰かを傷つけてしまうことに恐怖心を抱いていたのだと思う。

そんなかつての自分には、思考と発話の間に、長い、長い、タイムラグがあった。頭の中で考えているイメージを的確に表現する言葉を探し出す時間、受け取り手が自分の言葉をどのように解釈するのか頭の中で何度もシミュレーションする時間が、誰よりも必要だった。そんなことをしているうちに、会話はとっくに次の内容に進み、次なる会話に追いつくのに必死だった。

集団になればなるほど会話の内から放り出されていく私は、そこにいるのにいない蚊帳の外であった。

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そんなかつての自分とは打って変わって、今の私はコミュニケーションが好きになった。人と話すのは、全く苦痛ではない。むしろ人に対する好奇心の強さからか、自ら進んで人と話したい、繋がっていたいとすら思う。初めましての人であっても、それとなく会話を切り出してその場を繋ぐことぐらいはできるようになった。

人並みのコミュニケーション能力を身につけた今、かつての“無口な私”はいない。と同時に、かつての“思考の奥深さ”もない。“言葉の重み”もない。社会の中で上手く生きていく術を手に入れたと同時に、唯一無二の武器を無意識のうちに捨てた。

断然生きやすくなったはずなのに。自分の言葉の軽薄さに冷笑してしまうのは、なぜだろうか。思考に思考を重ねた末に紡ぎ出していた、あの頃の自分の方が凛としているのは、なぜだろうか。


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私たちは社会が求める“普通の枠”に無意識に向かっている。その無意識が、私たちの個性を虐殺していくのではないだろうか。

と、たまに思う。


生きづらさを糧に、踏ん張っていた昔の自分が、ひどく懐かしく感じた。

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