婆とバス停



 できるだけ端的に身支度を済ませて、朝食に取り掛かろうと思い立ち、ふと、時計を見ると、ちょうど8時だった。もうこんな時間と呟き、昨日新調した淡い水色のスニーカーを履こうか、履き古した運動靴を履こうか迷った挙句、面倒くさくなって履き古した運動靴に、乱暴に足を突っ込んで、急いでバス停まで走った。
 バス停に着くと、いつも顔を合わせる男の人たちが居た。間に合ったあと思ってベンチに腰を下ろすと、ピー!ってホイッスルの音が鳴り響いて、ギョッと音の方向を見てみたら、見た事のない猫みたいな顔をした赤いタキシード姿の男が、鬼みたいな顔して、こっちに近づいて来て、見えんのか!と怒鳴ってきた。
 見えんのかって言われても、私には、ホイッスルを持った気狂い1人しか見えなかった。もしかしたらこの気狂いもベンチに座りたいのかなと思って、ベンチを見たら、変だなと思った。いつもならベンチに顔見知りの男たちが10人くらいでぎゅうぎゅうに座っているのに、今日は、なぜかベンチには、私を抜いて4人しか座っていなかった。それに、4人は全員今日初めて見る顔の老婆で、彼女らのおしりには、目新しい腰掛けマットが敷いてあった。老婆は全員寝ているように見えてなんだかとっても面白くて吹き出しそうになった。
 見えんのか!再び気狂いが声を荒げた。(これ以上気狂いというのは精神がすり減るので以後、猫男と呼ぶことにする)
 私が状況を飲み込めずに、まごついてたら、顔見知りの1人のKっていう同級生の男子が、すみません、彼女はまだ知らないんです。金曜は休んでいたので。と割って入って猫男を止めてくれた。
 たしかに私は先週の金曜日の学校を休んでいたからバス停にも行ってない。私のいない間に何があったのかな。
 猫男がKに制止されながら、だとしてもベンチを見るとなんとなく分かるだろ!俺がこんな綺麗な等間隔で婦人の方々にお座りになって頂いたってのに。そこに割り込む様に図々しくも座るこの女には1つ社会のマナーってもんを叩き込まなければならん!って喚いた。
 とりあえず私は立って、謙譲謙譲と頭の中で呟きながら、すみません。バスの時間に間に合わないと思って焦って走って来たので、疲れちゃって、つい何も考えずに座ってしまいました。と、謝った。それと重なる形でバスが来た。
 猫男は、にゃ!って言った後、Kの耳元でホイッスルを吹いた。Kがうわっと叫んで反射的に耳を両手で隠すために猫男の制止を解いてしまった。猫男がこちらへズンズン大股で近づいて来た。
 殴られるたら殴り返してやろうと思って私は逃げずに猫男を睨んだ。ほんとは足が震えて逃げれなかっただけ。ついに猫男と私の距離が1mになって、殴られると思って身をすくめて、目を細めたけど、猫男は私のことなんぞ存在していないかの様に無視して通り過ぎた。振り返ると、猫男が、4人の老婆に丁寧に深々とお辞儀をして、大変お待たせいたしました。バスが到着いたしました。と言って右端の老婆に手を差し出した。
 その老婆の歳の頃は80歳くらいで、お化粧はごく薄く、装いは、上品な水色のワンピース、そして歩きやすそうなウェッジソールの黒いブーツ。白髪は上品にカールが巻かれていて、背筋もシャンとしていて、そのお姿はまるでオードリー・ヘップバーン。老いたらこんな美しい方になりたいなと思ったと同時に、先ほど思わず吹き出しそうになってしまったことが申し訳なくて、もうほんとに泣きそうだった。
 その老婆は猫男の手の甲を婦人傘でぶって、もうあんたには騙されないよ!あんたまたアタシ達を、あんな汚らわしくて淫乱な作品出演させようとしているだろう!あぁっ恐ろしいこと!この可愛らしい嬢ちゃんが私達を起こしてくれなきゃ、またあの米人に間違いを犯されていたなんて!と怒鳴った。その怒鳴り声にすら気品を感じられてうっとりした。
 そうしてそれから、隣の老婆の御三方もそうだそうだそうだ!と抗議した。よく見るとその御三方は紫、白、黄色と、全員色は違えどそれ以外は右端の水色の老婆と全く同じ服だった。それどころか顔も髪も肌の色もみんな同じだわ!
 また私は再び状況が飲み込めなくなった。隣では猫男が悶絶していた。猫男は魔法が解けたように手が猫の手になり、尻尾が生え、顔はもはやただの黒猫だった。
 Kが突然、うわあああ熟女モノがぁと嘆いた。他の顔見知りの男の人たちも金がどうだの命がどうだの家族がどうだのと嘆いていた。
 老婆4人は私に、嬢ちゃん、ありがとうね。全く、この化け猫酷いわ。女をなんだと思っているのかしら。でも負けるんじゃないよ、嬢ちゃん。女としての誇り高く生きましょう!私たちは何だってできるんだから焦らず一つ一つ真摯に瞬間を生きましょう。となんだか纏まっていないことを言うから、私が、はあって腑に落ちない空返事をして瞬きすると老婆は消えていた。
 バスの方を振り返ると顔見知りの男の人たちは何事も無かったかのようにバスに乗っていた。Kが、おうい早く乗れよ。と同様に何事もなかったようにバスの窓を開けて言う。私が小走りでバスに向かうと毛の乱れた一匹の黒猫が逃げるようにバスの下に潜った。
 さっきまでの出来事はいったいなんだったんだろう。幻覚だったのかな。私疲れてるのかしら。一連の出来事は私にとって何かとても大事な瞬間だったような気もするけれど、なんでもなかったような気もする。
 

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