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主従の話はnote、写真の話はサイトに。



このnoteの使い方を今一度考える


時間の流れというのは抗いようもなく、
日々の繁忙を極めていると気付けば犬を飼い始めてそろそろ2年になります。

私生活の環境が落ち着かない中でもKAIと過ごす時間に細々と写真を撮り続け、
藍染として切り取る日々の枚数もだいぶ増えてきました。


そんな折、以前からKAIと話していた私たちのポートフォリオサイトが完成し、(KAIくんありがとう)
私が藍染として、KAIがKAIとして撮るようになってからの写真を残す場所が整いました。


今後写真を織り込んだBLOG的な使い方もできたらいいね、と話す中でnoteをすっかり放置していることを思い出し、
棲み分けや活用方針を改めて整理せねばと思ったのが今回筆を執るに至った動機です。


表の名義と裏の名義を統一化した理由


私は写真で活動をするにあたり表の名義と裏の名義(藍染)がありました。
表の私は主に交流や副業のために鍵無しのアカウントを運用し、
SNS受けやポジティブな印象を狙った写真だけを掲載していました。

もちろんその表の私も嘘偽りのない私の一面であり、無理やり捻り出した写真は一枚たりともありません。


しかし努めて明るくポジティブに振舞えば振舞うほど
素の私で写真を残すことに対しての考えや、
陰のある写真をポストしたときとのギャップや周りの人々との温度差が拭いきれず、

自己表現であるはずの写真というものからどんどんと乖離していくような感覚に襲われていました。


そんな日々を過ごす最中にKAIと出会い
写真も主従も彼と育みながら心に血を通わせていく中で、

清濁併せ呑んでここまで歩んできたからこそ見える景色があり、
冷たい影が落ちている上空には温かい光もあるのだと気付き、
それを素直に愛おしいと捉えられる感性がある

そんな思いを持つようになり、
次第に表と裏を切り離すことがいかに自分に不向きだったのかを理解したのでした。


残していきたいのはどんな私なのか


写真は被写体を切り取り焼き付けるものであると同時に、
撮影者の眼差しを縫い付け残すものでもあります。


であればこそ、あくまでも飾らない私の一瞬として残していきたい。

ならば公開したい人たちも私たちと同じ主従の世界に触れ、
KAIのことも知っていて、
私たちを温かく見守ってくれている場所に骨をうずめたいと思いました。


主従やSMは非日常だという人がいます。

スタイルとして十人十色なのでその考えを否定することは私にはできません。

でも私はKAIとの主従を日常だと思っているし、裏も表もなく藍染でいられる自分が好きです。


撮った写真が注目されたり依頼に繋がったりする機会は今後無くなりますが、
自分に合った写真の愛で方を知ることができ、その愛で方ができる場があるという気付きを得たことに比べれば
私にはそんなのは些細なデメリットでしかありません。

KAIと藍染だから気付ける景色、見える色、香る匂い、感じる風があるのです。


故に別名義を廃止し、KAIという犬を一頭飼う藍染としての私のままアウトプットをしていくに至ったのでした。


主従の話はnote、写真の話はサイトに。


前置きが長くなりましたが改めて結論を書きますと、

noteとサイトを使い分けることで、私の主従的思想と写真的思想を分けて書き留めていきます。

主従の話はnoteに、
写真の話はサイトのブログ記事に。

どちらも更新した折にはX(旧Twitter)のほうで随時お知らせしていきますが、
ふと思い出したときに覗きに来ていただくくらいのほうが
私の更新頻度の性に合うような気がします。


とは言いつつも来月10月でKAIとの2年記念日が来ますので、
1周年はサボってしまったから(Xではちゃんと書きましたよ)今度こそきちんと書けたらいいなと思っています。


さいごに


余談になりますが、もともと私はXのアカウントも絵や声や写真やSM……と界隈別に分ける癖があり、
界隈によって文体やテンションも変えてきました。

それが一種の人格乖離に繋がり、
「私」から生まれる自己表現の幅と意義を狭めてしまっていたのではないかと今は感じています。

極論、私が不器用だったというだけなのでしょうが。

自己表現も愛情表現も不器用な私がのびのびとアウトプットをする場を得られたのはKAIくんのおかげであり、
日頃のポストや私の思考、私たちの記録を温かく見守ってくださる大切な隣人たちのおかげです。

私は幸福だなと真に感じます。


写真を撮る撮影者としても

主従関係として犬を飼う飼い主としても

まだまだ未熟な私ではありますが、引き続きお見守りください。



藍染

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