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「あわい」を求める:映画「川っぺりムコリッタ」を観て

「川っぺりムコリッタ」。まず、不思議なタイトルです。「川っぺり」はともかく、「ムコリッタ」?
私は最初耳にしたとき、フィンランド語だと思い込んでいました。荻上直子監督のことは、フィンランドで撮影した「かもめ食堂」で知ったのだし、また「キエルトティエ」というフィンランド語を店名にしたカフェによくいくのですが、その響きと何となく似ていると感じたからです。
 
全然違いました。仏教の時間単位の一つで約48分を表すそうです。そういうと無味乾燥ですが、仏教では最小単位が「刹那」、それより長い時間単位にいくつかあってその一つ。

『大毘婆沙論』『倶舎論』では、
1昼夜 = 30牟呼栗多(ムコリッタ)
1牟呼栗多 = 30臘縛(ろうばく)
1昼夜とは24時間で、1440分 = 30牟呼栗多
よって、1牟呼栗多は約48分を表します。
 
ただし、上記は一例で、この単位が表す時間の程度には使われ方によって幅があります。

https://jiincenter.net/mukoritta/

時間を表す単位の一つということは、時間の流れの「境目」のひとつということもできると思います。ただ、時間の境目といっても、ストップウォッチで切れ目の入るような境目ではなく、もっとゆったりしたレイヤーのある境目だと私は感じました。そうした時間の流れ方は、誰しも体験したことがあるでしょう。例えば少しずつ暗くなる夕暮れ時。映画でも、昼と夜の時間の境目に、光と雲と空が織りなす曖昧で優しい夕暮れ時の美しい風景が何度も描かれます。昼と夜が重なり合う、いわば「あわい」。
 
この映画のテーマは、そうした「あわい」にあると思います。
 
北陸の町に流れ着いた松山ケンイチ演ずる山田は、生きようとしているのか、生きるつもりがないのかわからない、そんな「あわい」の心理状態で、ハイツムコリッタに住み始めます。彼は最初、他者と関わることを避け他者との境目に壁をつくろうとします(あわいではなく境界、境目)。
 
一方、となりに住むムロツヨシ演ずる中島は、一般には存在する「個の壁」をやすやすと超えて闖入してくる存在です。山田は否応なく中島に浸食され、境界がどんどんレイヤー状、すなわち「あわい」になっていきます。
 
ここで食事が重要な意味を持ちます。(荻上監督の得意技!)山田が一人で食事しようとすると、決まって箸持参で押しかける中島は、
「ご飯ってね、ひとりで食べるより誰かと食べたほうが美味しいのよ」

https://www.cinemacafe.net/article/img/2022/09/22/81010/579444.html

と口癖のように言います。嫌がっていた山田も、少しずつ打ち解けていきます。「食べる」という本能的な行為、無防備ともいえる時間を共有することは、境界にある壁を引き下げることであり、本質的には一人では生きられない人間にとって、とても重要な意味を持ちます。縛られた境目がほどける瞬間になるのです。(映画「ドライブ・マイ・カー」でも、韓国人夫妻の自宅を訪れて一緒に食事する場面はとても重要なシーンでした)
 
 しかしある日の食事時、中島がなぜか来ません。あんなに嫌がっていた山田は、不安になりちゃぶ台に並んだ食事をそのままに、中島を探しに行くほどです。境界がなくなったことを象徴しています。また、そのあたりから、山田という人間の複雑性(あわい)が垣間見えてきます。
 
吉岡秀隆演ずる墓石販売の溝口が、珍しく高額な墓が売れて自室で息子と夢にまでみたすき焼きを食べようとすると、その臭いを察知した住人たちが箸と器を持って押しかけ、結局全員ですき焼き鍋をつつくことになります。山田と中島との間で起きたことが、住人全体に広がった瞬間です。ここでも、食事が境目を取り去ったのです。

https://www.cinemacafe.net/article/img/2022/09/22/81010/579444.html


 その食事の場面で、もう一つの境目の話題が出ます。
山田はその数日前の真昼間、亡くなったかつての住人(ちょっと派手なおばあさん)の姿を見かけ、言葉を交わしました。亡くなっていることを知らない山田が、何気なくそのことを皆に話すと、そのおばあさんを知っている他の住民たちは、懐かしそうこう言いあいます。
「まだ、いたんだ。」
「山田さん、今度会ったら私にも会いに来てと、言っておいて」
 
生と死の境目がはっきりしないのです。これもこの映画の重要なテーマです。生と死に厳密な境界はなく、「あわい」によってつながっている。
 

あらためて、時間における「あわい」について。
緒形直人演じるイカ塩辛工場の沢田社長が、単調な作業にくじけそうになる山田にこう言います。
 
「一日一日、コツコツしっかり作業をやり切れば、それが一か月、一年、十年と続いていく。」
そんなことに意味があるのかと問う山田に、断言します。
「あるよ。意味はある。長く続けていれば、それをやった人間には必ず見えてくる。でも、最初の頃は誰もそれは見えないんだ。」
 
これは、時間が獲得させる価値を表しているように思います。変化はゆったりした時間の流れの中で少しずつ生じて、あるとき振り返ってみれば、大きく変化しており価値を生じさせている。そうした「あわい」の時間を過ごし続けることの価値を、人類は知恵として蓄積してきた。ムコリッタという言葉から、私はそういう「あわい」を含んだ時間の流れを感じます。
 
近代以前の人々は、時間の境目も自分と他者との境目も、家族とそれ以外の境目も、そしてこの世とあの世の境目も曖昧にして暮らしていたのではないでしょうか。それが、近代になりどんどん境界を厳格につくるようになっていった。それを後押ししたのが科学です。
 
そして現在があります。いきついたのは、あらゆる境界を厳密化した今の世界。人々はそれに疲れています。だから、この映画のような世界観に、どこかで憧憬を感じるのではないでしょうか。そういう意味で、とても現代的ないい映画だと思います。

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