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喪失と再生:映画「ドライブ・マイ・カー」を観て

封切り当初に一度観ているのですが、アカデミー国際長編映画賞受賞を機に、もう一度「ドライブ・マイ・カー」(濱口竜介監督)を観に映画館に足を運びました。

以前は気づかなかったいくつもの伏線の貼り方に、今回は気づくことができました。やはり二度は観ないと、なかなか監督の意図に近づけないものです。ひとつあげるとすれば、たびたび聞こえてくる「ワーニャ伯父」さんの台詞が、間接的にストーリーと結びつき、奥行きをあたえています。

報道等で伝えられているように、本作のテーマは「喪失と再生」です。それは西島秀俊演ずる家福祐介だけでなく、三浦透子演ずるドライバーの渡利みさきとの二人の喪失と再生の物語です。喪失を経験している二人が、交わることで二人とも再生に向かう物語です。全く異質の二人ですが、間接的にではありますが、大切な家族(妻/母)を死に至らしめ、その罪の意識から抜けられないという共通点を持ちます。

喪失者が再生に向かうには、やはり他の喪失者と本心から対話することが有効であることを暗示しています。喪失者は、喪失者でない他者からどれだけ元気づけられ応援されても、それで再生に歩めることは、まずありません。自分と同じ種類の苦しみを共有しない他者の言葉は、響かないのです。

人は共感により慰められます。しかし、その共感は心の深いところでしかつながりません。中途半端に共感されると、かえって抵抗してしまいます。だから、喪失者はできるだけなんでもないように振る舞うのです。家福もみさきもそうでした。ふたりとも、どこかで蓋をしているのです。二人が乗る赤いサーブは、ほとんどの場面でトンネルの中を走行しています。私にはそれが二人の気持ちの蓋に見えました。

二人がそれぞれの蓋を外すきっかけとなったのは、演出助手(夫)と聾唖でソーニャ役を演ずる俳優(妻:彼女の演技が素敵!)の韓国人夫妻の自宅で、夕食を振る舞われたことからです。夫人の手料理を四人で食べることから、空気が変っていきます。温かい家庭と手料理に囲まれて、家福とみさきは、少しずつ蓋や殻を外していきます。家福に運転を褒められたみさきが、照れ隠しか飼い犬に近づき、その頭を撫でます。そこに、みさきの変化が示されます。手作りの料理を皆で食べるという行為が、人の気持ちを溶かし、関係性も変えるきっかけになります。太古の昔から人類はそうして、協働してきたのです。

さて、終盤の自動車の中での岡田将生演ずる高月の発言から、ラストに向かって、大きく物語が動いていきます。演技の悩みを家福に聞いてもらいたかった高月は、ヒントを得ます。そして、帰り際に事件を起こした(場面としては描かれない)後、ホテルで送ってもらうサーブの中で、高月と家福が真剣な対話をします。前半は家福が高月に語ることが多かったのですが、後半になると高月が語り始めます。とてもスリリングな場面です。これは推測ですが、高月は事件を起こしたことで、人生を達観したのかもしれません。

妻の秘密を知っていることを妻に隠していたという家福の告白に、高月は「言ってほしかったんじゃないでしょうか」と、意外な切り返しをします。そこから、家福は妻の気持ちを知ろうとしなかったことに気づいたように見えます。さらに高月はこう続けます。
「相手の心なんてわかるはずもない。わかったら自分が傷つくだけ。それよりも、自分自身を見つめた方がいいんじゃないでしょうか」
家福は、うわべの平和を失いたくないばかりに、自分を偽ってきたこと、勇気のなかった自分、それらが尾を引いて自分自身に向き合えない自分、そうした蓋の実態に気づいたのでしょう。


高月の事件が発覚し、演劇を上演するか中止するかの判断を迫られ、二日間の猶予をもらった家福は、考える時間をみさきの故郷(北海道)に向かう車での旅に費やすことにします。家福は、みさきの再生と自分の再生がリンクしているのだと無意識に感じ、みさきの再生のきっかけは故郷にあると直観したように思えます。それが、大きな分岐点に立つ自分に、今必要なことだと感じたのでしょう。

雪に埋もれた崩れ去った実家の残骸を前にして、みさきは母と自分の関係に向き合い、家福に語ります。家福も亡くした妻(音)へのわだかまりを語ります。ふたりそれぞれが、お互いが持ち続けた罪の意識を解き放つように、相手に言葉をかけます。正確に言えば、言葉が相手を癒したというよりも、言葉に乗った心が響いたのだと思います。

家福は泣きながらこう叫びます。
「音(妻の名)に会いたいよーう!会って怒ってやりたい。そして、謝りたい。音の話を聞いてあげられなかったことを。」

みさきの隣で、家福は蓋を取り去り、再生に向かいました。その後、演劇は成功したようです。みさきも同様です。ラストシーンでは、みさきは韓国におり、家福の赤いサーブを運転しています。後部座席に飼い犬を座らせて。そして、マスクを外すと、左頬の傷がなくなっています。傷は母との葛藤の象徴でした。それを手術で取り去ったのは、みさきの再生の象徴です。また、大切にしていた愛車サーブをみさきに譲った家福も、再生し踏み出したことを、その場面から想像できます。


再生するためには、自分自身に正直に向き合うことが不可欠で、それにはその過程を共感とともに関わりあえる他者の存在が大切だというメッセージを受け取りました。

そして、再生にとって、もう一つ重要なポイントが描かれています。

雪の上で「蓋」を取ったあと、家福はみさきにこう語ります。

「生き残った者は、死んだ者のことを考えつづける……ぼくや君はそうやって生きて行かなくてはいけない」

再生することと、忘れることは違います。再生できればこそ、失ったものを慈しみ思い続けることができます。再生に歩み出した家福の決意表明と聞きました。これは、とても大切な指摘です。

本作は、人の心の微妙さ、そして傷ついた人が何を求めるのか、どうすれば再生に向かうことができるのか、こうした複雑な人間心理を描いた傑作です。このような映画がアカデミー賞を受賞するということは、世界が大きな喪失感を味わっている現実と関係がある気がしてなりません。



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