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よい暮らしとは?:「じゅうぶん豊かで、貧しい社会」読んで

1930年頃、ケインズはこう指摘しました。
 
技術が進歩するにつれ、単位労働時間当たりの生産量は増えるので、人びとがニーズを満たすために働かなければならない時間はしだいに減り、しまいにはほとんど働かなくてよくなる。そういう時代が100年以内にくるだろう。
 
もちろんこの予言は当たっていません。なぜでしょうか?
 
それを探ったのが本書です。
 
理由は簡単です。
 
「ニーズを満たす」ことは、ないからです。ヒトの欲望は無限なので、いったん満たした思えば、さらに上のものが欲しくなります。「もっと、もっと」と。そして、その原動力は、他者との比較です。
 
こうした拡大し続ける欲望があるので、経済は成長する。それを前提とするのが資本主義。だから、資本主義体制にいる限り、成長しなければならない。

ケインズは、あり程度満足する「よい暮らし」という共通の概念があると考えていました。その水準に達すれば、成長は止まると。しかし、そうではなかった。「よい暮らし」は存在しなかったのです。
 
よい暮らしをしたい→そのためにはお金が必要→たくさん働く→所得が増える(→経済成長)→もっとよい暮らしをしたい→もっとお金が必要→もっとたくさん働く
 
 
こうした状況に抵抗するのが、原題「How much is enough?」である本書です。
 
倫理と欲望の関係性が、重要なテーマです。基盤として倫理がある所に、欲望の効用を加えたのがアダム・スミスでした。それがいつのまにか、倫理が消え失せて、欲望だけが残った・・・。果たしてこの状況は、持続可能なのでしょうか?
 
当然、答えはNOです。このサイクルに乗れたとしても、疲弊し続けます。また、このサイクルから零れ落ちる、競争敗者が必ず生まれます。そして、社会の一体感は薄れ、不安定になります。それに対処するための社会コストが大きくなり、それを償うためにもっと成長せねばならず、このサイクルが回り続け、さらに社会コストが増大する・・・・。
 
行き着くところは、(もともとはあった)満足できる「よい暮らしとは?」という疑問です。
 
著者は、よい暮らしを形成する7つの基本的価値を示しています。基本的とは、普遍的かつ最終的なもので、独立しており、なくてはならないものを指します。
 
 
1)健康
身体の自然に整った状態
 
2)安定
自分の生活が、明日以降もおおむね従来通り続く、と妥当に予測できる状況
 
3)尊敬
他者の意見や姿勢を重んじ、無視したり粗略に扱ったりすべきでないとし、それを何らかの形で表明すること
 
4)人格または自己の確立
自分自身の理想や気質や倫理観に沿って人生を設計し実行する能力
 
5)自然との調和
自然は本質的価値を持つと同時に、人間の尺度によっても価値を持つ(芸術と同じように)。
 
6)友情
(友達に限定せず、)健全な愛情で結ばれた対人関係全般
 
7)余暇
より深い思索、より豊かな文化の源泉。外から強制されてやるのではない、「目的のない合目的的行動」(家族のため、会社のため、生活のため、などの外かの目的を持たず、あくまで自分のため)
 
 
以上の7つの基本的価値であれば、「もう十分」という水準がありそうです。それらに達する「よい暮らし」なら、頑張って実現できそうな気がします。また、その実現を支援するのが、国の責任だと思います。
 
 
先日、なじみの喫茶店のカウンター席で、本書を読んでいたところ、隣に40~50代くらいの女性二人客が座りました。深刻そうに、年金や雇用期間延長、資産運用などの話をしていました。そして、一人がつぶやきました。
「でも、損得を一所懸命考えて、得してもねえ・・・。」
 
思わず本書を紹介したくなりましたが、やめました。




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