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生演奏の力:「クセナキスと日本」から

演奏を生で聴くことの喜びを、久しぶりに味わいました。

6/5(土)、めぐろパーシモンホール で「クセナキスと日本」と題した20世紀を代表する現代音楽作曲家の一人、クセナキス生誕100年を記念したフェスティバルを聴いての印象です。

さして現代音楽が好きなわけでもありません。たまたま3日(木)の夜に読んだ朝日新聞夕刊に小さく紹介されていた記事を見つけ、即予約。予約したプログラムの演目は、「ルボンと舞」と「18人のプレイアデス」。前者は加藤訓子さんの打楽器と、観世流能楽師中所宜生さんの共演でした。中所先生は、私が最初にお仕舞を習った先生です。加藤さんの打楽器は凄いとの噂も聞いていたので、この機会は逃すまいと思ったのです。クセナキスのことは、コルビジェに師事した建築家で数学者とは知っていましたが、曲を聴いたことはありませんでした。

開演の19時より少し早めに会場に着くと、ロビーで般若佳子さんのヴィオラ演奏に出迎えられました。あまり聞きなれない現代音楽の世界に誘われ、少し気分を高めて席へ。舞台上には照明によって、能舞台の五間四方が表示されています。そして舞台上座に大きな太鼓がいくつも置かれ、そこに加藤さんが立つ。

能樂では太鼓だけをバックに舞う形もあるので、私には違和感はあまりありませんでしたが、初めて仕舞を観た方はどう感じたでしょうか?席が前からに二列目でしかも上手よりだったので、中所先生と加藤さんを同時に見ることはできません。仕方ないので、もっぱら耳で太鼓を追い、舞を観ていました。力強い太鼓の響きと舞が、全く違和感なく溶け合っていました。通常、仕舞は3分程度、長くても5分程度なので、ここまで長時間舞うのは大変だったことでしょう。仕舞は型の連続なので、あまり長時間舞うと単調に感じてしまいかねません。でも、変化のある太鼓をバックにしているので、そうは感じませんでした。中所先生の集中力が舞台に緊張感を巡らせ、それと加藤さんの氣の籠った響きとがバトルしていたからでしょう。少し残念だったのは、やはり加藤さんの演奏姿をあまり見られなかったこと。でも、素晴らしいコラボレーションでした。

さて、次はメインとも言える「18人のプレアデス」。舞台には最初からたくさんの打楽器が置かれていました。打楽器によるシンフォニーらしい。二列目だったので、あまり楽器は見えません。この曲は、「金属」「鍵盤」「太鼓」「総合」四つの楽章からなり、演奏順は演奏者にゆだねられているそうです。

第一楽章「金属」。舞台最後方に6人の若い演奏家が一列に並び、ハンマーのような撥で金属を叩きます。最初は、日蓮宗のお寺でよく聞く単調な音の羅列だったのが、徐々に一人ひとりのリズムがずれたりして、摩訶不思議な空間ができあがります。少しずつずれた金属音が共鳴して一つの大きな固まりのような物体が現れ、そこに小さく刻んだ音が乗り込んでいくようなイメージ。6人の演奏者の実力が揃っており、かつ息が合っていればこそ出現した世界だと思います。

第二楽章は「鍵盤」。舞台中列に大きなマリンバが6台。6人の演奏家は、両手に撥を4本持ちパワフルに叩き続けます。鍵盤と題されるように、最もメロディーがあるので、音楽としては聴きやすいものでした。

第三楽章は「太鼓」。マリンバを囲むように6人分の大きな太鼓が並んでいます。一人で3つくらいの太鼓を担当するようです。和太鼓演奏は何度か聴いたことがありますが、それよりも音の響きが深いように感じました。でも迫力は同様で、太鼓特有の腹にずんずん響いてくる波動は、とても心地よいものです。打楽器は聴くというよりも体感するものだと、あらためて感じました。6人が息を合わせて難しいリズムを激しく叩く姿を見ているだけで、何とも言えない世界に引き込まれるような気分となります。
(下は加藤のスタジオ録画版です。)

最終章は「総合」。これまでの全員が一堂に会しての演奏で。ここで加藤訓子さんが指揮者として登場。(そこで加藤さんの演奏は「ルボンと舞」だけだったと気づきました。)加藤さんの指揮も太鼓をたたくように激しいもので、18人のエネルギーを最大限に引き出す。これまでの3楽章を溶け合わせたような演奏。打楽器だけで、これほど豊かな世界が表現されていることに感動しました。

このフェスティバルは昨年実施される予定だったものが、コロナで一年延期されたものだそうです。18人の実力の揃った演奏家が必要な曲ですが、コロナで海外の演奏家の出演は断念。加藤さんは、日本の若手18人で演奏することに急遽決定し、延期の1年をこれ幸いと若手鍛錬の機会としました。

私はこのパンデミックに大いに感謝している。昨年の今頃、全員即決で延期を決定した。時間ができたのである。若者を連れ出し、大自然の中で朝から晩まで太鼓を打ち鳴らし、日が暮れていった。あっという間の一年間、この難局にのめりこんでいった。コロナが怖いのではない。プレイアデスという難局に立ち向かう勇気が備わっていなかったのだ。人は課題があるとこうも変わるものなのか。ひとつの課題を乗り越えるとまた次が見えてくる。逆境を乗り越え、さらに強くなる。このミッションを完遂するか否か、今日が終わるまでわからない。しかし、彼らの身体に浸透した作品の一部はこの先もずっと宿り続けるだろう。(加藤訓子 当日パンフレットより)

最後の打音が終わり残響が消えるまで、演奏者全員が指揮者の加藤さんの少しずつ下がる腕を集中して凝視する姿を、私は固唾を飲んで見入っていました。そして、加藤さんの腕が下がり切り、ふっと力が抜け緊張が解けた瞬間の若い演奏者たちの喜びにはち切れんばかりの表情を見て、目頭が熱くなってしまいました。ミッションは完遂されたのです。

コロナ禍を逆手にとってこうした大きな価値を生みだしたことは、私たちに大きな勇気を与えてくれます。

人間が身体をフルに駆使して発する音は、デジタルとは全く異なるものです。どんなに優れた音響機器でも、絶対表現できない。演奏者同士、演奏者と観客、人間と人間が生身を駆使してぶつかり合うことで発するエネルギー(他に言いようがありません)、これこそが混迷している今絶対的に必要なものなのでしょう。







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