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ダイアログが不可欠

森川すいめいさんの「感じるオープンダイアログ」を読みました。たまたま数日前に観たEテレ「宗教の時代」で、森川さんの活動が採り上げられ感銘を受けたので、すぐ書店でもとめたのです。森川さんが扱っているのは、精神の病を治癒するための「オープンダイアログ」ですが、本質は他のダイアログ(対話)と変わらないと思います。

十数年前からダイアログが日本でもとても注目されており、しかもさまざまの分野から発信されています。私が読んだ本だけでも、ダイアログに関わっていたのは、
  人材・組織開発/哲学/教育/演劇/音楽/ダンス/ケア/看護/医療/刑務所での矯正/・・・
といった分野で、きっともっとあるに違いありません。

なぜそれほど注目されているのか?当たりまえですが、
・ダイアログの必要性が高まっている
・にも関わらず、ダイアログが実践できていない
からでしょう。

森川さんによると、「オープンダイアログ」の創始者であるケロプダス病院のアラカレ院長は、オープンダイアログを始めるにあたってまず最初に2つのことを決めたそうです。

 ・その人のいないところで、その人のことを話さない
 ・1対1で会わない

ここを読んで、なるほど!と思いました。

まず、「その人のいないところで、その人のことを話さない」について。(これは精神病治療を想定していますが、当事者のことを題材にするダイアログには共通だと思います)
本人の前でその本人のことを話すのには、それなりに覚悟が必要です。また話される方も、自分の目の前で話されていることがすべてである、と認識できていれば、やはり覚悟を持って聞く姿勢を持てると思います。最も不信を感じるのは、この場とここ以外では異なることが話されているのでは、と疑念を抱いたときです。もしそう思ってしまったら、バリアを張ってしまい本心は語りませんし、聞く耳も持てなくなります。人材育成やチームマネジメントにおいても全く同じです。

次に、(特に相手に大きな影響を及ぼしかねない場面では)1対1で会わないというのも、とても重要です。なぜなら、1対1にしてしまうと、そこに社会的な関係性がどうしても入り込んでしまうからです。医者と患者、上司と部下、親と子、男と女、などなど。無自覚かもしれませんが、関係における役割を演じてしまいます。もちろん、いい面もあるでしょう。上司という役割で面談することで、上司としての当事者意識に目覚めるといったように。しかし、役割を演じることで、自由な発想が妨げられることは否めません。また、役割に拘泥するあまり、自分を開くことができなくなるかもしない。そこに第三者が加わることで、関係性が変化し、開かれた場になりやすくなります。その結果、柔軟で創造的な発想も湧きやすくなる。役割を演じる価値よりも、創造的な発想を生み出す価値の方が高まっていることも、ダイアログが近年注目されていることの一因だと思います。

また、オープンダイアログ発祥のケロプダス病院では、「7つの原則」が実践の中で積み上げられています。そのうちの一つに、
 Tolerance of uncertainty(曖昧さに踏みとどまる)
というのがあります。人間は曖昧で不確かな状態に置かれると、不快になりそれに耐えきれず、すぐにわかりやすい「正解」に飛びついたり、自分でわかりやすい因果関係(ストーリー)を作り上げたりする。そして、それが往々にして失敗を招く。自分のわずかな知識や経験だけで、短時間で結論を決めるのですから当然です。だから、不快さに耐え踏みとどまるよう意識しなければならない。(negative capability という言葉も聞かれるようになりましたが、同じ意味です。)

ダイアログとはある人がしっかり最後まで言いたいことを言い切った上で、他者がそれに対して自分の考えを返すというキャッチボールです。これもなかなか難しい。どうしても聞いてて何か思いつくと、中断してすぐ返したくなってしまう。それでは、安心してじっくり語ることができなくなってしまいます。だから、応答を踏みとどまることも欠かせない。

これらからわかることは、
 ・心を開きあえば良い関係を築くことができ、その結果本来持っている能力を発現しやすくなる
 ・しかし、心を開きあうことは容易ではない
 ・そこで、それを促すための工夫が必要
という考え方だと思います。
 
工夫ですから、それさえ意識して実践すれば誰でもダイアログはできます。それを妨げている古い「常識」を疑うことから始めればいいのでは。

ダイアログは今の日本のあらゆる場面において、良い影響をもたらすと確信します。








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