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脳の論理から身体の論理へ

人類は認知革命を経てホモサピエンスになったと、ハラリ氏は書いています(「サピエンス全史」)。脳の認知機能を駆使して抽象概念を創造し、それを多くの人々と共有しあうことで、動物の中で際立った能力を発揮できる特別な存在になったのです。

脳の認知機能は、突き詰めればニューロン(神経細胞)同士がシナプスにおいて結合できるかどうか、そこに電流が流れるかどうかにかかっています。つまり、スイッチがオンかオフかどうか。これは、コンピュータの原理、0か1かと同じです。

したがって、脳の認知機能はコンピュータと相性がよい。認知機能はコンピュターひいてはAIに外部化され、ますます強固なものになりつつあります。0か1、オンかオフで構成される「情報」は極めて固定的なものです。0と1とは両極端であり、かつ中間はない。0は永遠に0。

このように、情報化とは固定化と言い換えてもいいかもしれません。なぜ、アメリカであれだけ多くの人々がトランプ大統領を熱狂的に支持するのか、それは合理性ではなく、情報化を突きつめた「固定化」に基づく社会だからではないでしょうか。「必ず正しいものがあり、それを信じる自分は絶対に変わらない。」

それに対して、「変わらぬ自分というものがどこかにあるという思いは、自分を永遠の存在だと考えたがる、私たちの勝手な思い込みだ」と説いたのは釈迦です。

この自分中心の思いこみ(概念)が、「この世界は自分の都合に合わせて(計画通り固定的に)動いているのだ」という世界観を生み出す。しかし現実はそうはならず、悲嘆にくれることになる。そもそも前提が違っているのです。「変わらぬ自分」、「計画通りの未来」などない。その思い込みを捨て去らなければならない。それが釈迦の教えです。

脳の論理に対する、身体の論理ということもできるかもしれません。身体は0か1かではない。もっと流動的で曖昧ですべてがレイヤーで出来上がっていおり、しかも相互にからみあっている。同じ温度でも、寒く感じるときもあれば暑いときもある。自分自身の身体を、決して固定化などできない。病気にだってなる。

購入する食品には、必ず賞味期限が表示されています。期限の前と後。0か1の世界。しかし、家で調理した料理に賞味期限などありません。多少古くても、臭いが変でなければ食べても問題ないと知っている。脳の論理の賞味期限に対して、臭いで判断するのが身体の論理。身体の声に耳を傾ける。

私たちは情報化のもとで、身体性をどんどん失いつつあります。脳の論理は効率性にはなじむが、身体の論理にはなじまないから。しかし、私は思い込みと固定を否定した釈迦の考え方に同意します。曖昧で流動的、不条理なこともある。でもそれが人間。諸行無常。

脳の論理に基づく「変わらぬ自分」という思い込みを捨て身体性を取り戻すには、予測困難で固定化されえない場に身を置くことでしょう。例えば大自然。大自然はすべて変化に基づく。そうした環境に身を置けば、いやでも身体性に敏感にならざるを得ない。

もう一つは、認知機能から外れた情報に身をさらすこと。脳の論理が全く通用しないのが、芸術分野だと思います。好きなものは好き、共感できるものには共感できる。そこに理由は必要ありません。身体がそう叫んでいるからです。どんなに考えたって、できないものはできない。

脳の論理から身体の論理へ、これが2020年を通して思い至った結論です。



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