沈黙という豊かさを想う
沈黙は、気まずいものだった
沈黙は、悔しさだった
でもいまは、沈黙に豊かさを感じる
(沈黙させられる、という負の文脈もあると思うが、今回は扱わないことにする)
一番に感じられたのは、一人ひとりが自分自身の心の中にある言葉と向き合って発した言葉や言葉を発するまでの沈黙、時間をかけて言葉を選ぶ姿が美しく感じられた
昨年、このあわいろでの実験的な企画に参加してくれた友人の、この言葉にはっとした
いつからだろう、沈黙は気まずいものだった
言葉にすることに、価値を置きすぎていたかもしれない
大きい声、くっきりした想いや主張、正義の論理
でも、それだけじゃない、小さな声も
まとまらなくても、言葉にすることで受け取れるし、
できればきかせてほしいと願うようになった
もう一歩、歩みを進めたい
“声”にならない、言葉にならない”沈黙”に
そっと耳を澄ますこと
その沈黙を、いつくしむこと
そこには何もないわけじゃない
確かに、何かがあるから
沈黙も、表現だと思った
沈黙という受け取り方と、表現
子どもと、沈黙 静の時間
2年、自然保育の仕事をしていて
子どもの沈黙の豊かさにふれた
2歳の活発な元気な男の子が、山の川の澄んだ水をみて、たたずんでいた。何も発さず、ただ、じっと、凛と。
その姿が、たたずまいが、美しくいとおしく思えた。
言葉は、いらなかった
地元の仙台と3.11
当時10代の私が住んでいたのは、津波浸水域から10kmほどの内陸
震災2週間後から沿岸部に、通わせていただいた。
そこの方々が話してくれる津波のこと
同じ仙台に住んでいても、津波を見てもいないし経験していない私には
何もできないし、何もわからないのだ
慰めも、励ましも、できない無力感
沈黙するしかなかった
その時、沈黙は消極的で、悔しさだった。
でも、”わかった”って言えなかったし、言いたくなかった
慰めも励ましもおこがましいくらい、そこに生きる方々のつよさにふれた
いま思うと、”沈黙”しかできないという、受け取り方も
もしかしたら、ありだったのかもしれない
安易な同情でも共感でもなく、支援の押しつけでもなく
でも、必死にわからなさを受け入れようとした沈黙は、
わからないことをわかりたくてもがいた沈黙は、
自分にできる精いっぱいだったのかもしれない
沈黙のつむぐ関係ってあるだろうか
沈黙を気まずく思うんじゃなくて、無理に言葉にしなくてもいい
話したいときに話し、遠慮なく沈黙できる関係
むしろ、沈黙を大事に受け取りあえる、そんな関係をつむぎたい
もちろん話すと楽しいし、それもすごくありがたいけど。
オンラインでも、沈黙を慈しむ場はできる
あわいろでは、実験的にオンラインでの企画 (注:いまは、原則私の知り合いの知り合いまでの範囲で小さく開催しています。もし興味を持ってくださる方がいらしたら、メッセージください) を行っている。昨年から、オフラインの場では ”話すもきくも沈黙も表現” と言って、沈黙をいつくしめる場づくりを目指していた
オンラインでも大事にしたいことは変わらない
web会議だったら、沈黙がないように順番を決めたりいろいろとファシリテーションするだろうけど、会議じゃないし、効率じゃないから。
でも、どうやってオンラインでも沈黙を気まずくならず大事にできるかわからなかったので、ただ、「オンラインでも沈黙を大事にしたいんです」と初めに言った。
先日の場は、本当にそれが叶った
沈黙の時間が確かに多いのに、それが心地わるくなくて
むしろその空気感に安堵すらした(主催側のバイアスもあるかもしれないが)
あぁ、大事にしたいことは、ここにあった
場は、私だけがつくるものじゃない
参加してくれる人の紡いでくれる空気感
いたみを、ぎゅっと抱ける空気感、
沈黙を、ぎゅっと抱ける空気感の広がり
そんな広がりの小さな場から、私は世界を描きたいと思う
きっと、まぶしいものやくっきりした主張だけじゃなくて
いたみを、沈黙を大切にできる世界を描くほうが
やさしい世界に近づける気がしているから
言葉との距離感は難しい
言葉にすることで、そぎ落とされてしまうものがある
それでも言葉にして伝えたい、受け取りたいことがある
言葉を大切にしながら、
でも同時に沈黙という豊かさも大事に味わいながら、生きていきたい
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