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日記のようなもの2

グラフィックソフトの契約に関して手続きが必要だったので、オペレーターとチャットでやりとりをした。まずオペレーターとチャットが繋がるまで2時間半を要した。休み明けで、さらに大型連休前ということもあって、混雑するのは承知の上であったが、想像以上に待つ事になった。途中トイレに行きたくなる。その間に繋がったらまずいなと思い、なかなか用も足せない。結局ノートパソコンを使っているのだから、パソコンを持ってトイレに行けばいいということに少しして気づいて、ことなきを得る。

いよいよ繋がったが、オペレーターの人は何人か同時に相手にしているらしく、レスポンスはあまり良くない。途中他の人に向けた文章をこちらに寄越して、すぐに訂正と謝罪が来たりした。忙しい時期に対応をしてくれるだけで十分にありがたいので、謝罪なんて必要ないですよー、と思いながらこちらの必要なことを聞き、手続きを終えた。終えた途端に、オペレーターの人はまた新たな人と繋がるのだと思う。大変な仕事である。本当にありがとうございましたという気持ちでパソコンを閉じる。

時代の感覚についていけないことを、アップデートできていないというふうに言う言葉を度々見かける。その度にアップデートという言葉が適切なのかどうかを思う。人の気持ちを想像できるか否かのようなことは、アップデートとやらをしてなれるものなのか。そもそも、アップデートという外部からの情報による書き換え、上書きのようなことが、人が変わるということを表せているのか。そしてそのような仕組みでアップデートをしてしまえるということは、時代の空気がおかしな事になってしまえば、容易におかしな風に変わってしまえるのではないか。そして時代に合わせられる者、合わせられない者というふうな分断が為されることは、果たして良いことなのか。為されるのではなく、分断がそこにあるのであれば、とてもめんどくさくて大変なことだけれど、裂け目の両岸から共に考えていくことが、大切なのではないか。

そんなことを考えながら、夕飯を食べる。かき玉汁とマグロと納豆の丼。まぐろの漬けは既製のものを買ってみた。調味液が黒く染みたまぐろの表面の一部に、シャボン玉の表面のような虹色が浮かんでいる。ちょっと味付けが甘すぎたが、もりもりと食べる。あのオペレーターの人も今頃何かを食べているだろうか。その時間が、できればゆったりとしたものであってほしい。

来週は夏日になるという。人間の生活は停滞しているようであっても、季節は進んでいる。

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