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ドアの前に広がる音楽


なにか用事を終えた帰り道、必ずといっていいほど音楽を聴いている。

いいことや、なにか嬉しいことがあった楽しい帰り道も、悪いことや、なにか悔しいことがあった悲しい帰り道も、ほぼ例外なく、その時に合わせた曲を聴いている。

自分にとって”音楽を聴く”ということ自体が目的になることは、日常を暮らす上ではない。


音楽を聴くこと自体が目的になる状況とは、すなわち足を運んでライブを観に行くことなど、能動的なもので、それ以外の音楽はすべてBGMとして存在している。

自分を鼓舞するのも落ち着かせるのも、今こうしてなにかを書くことに集中させるのも、すべてはBGM、自分があって、その伴奏という感覚だ。

ただ、日常の中で、音楽に動かされる、生かされる瞬間もある。

自分にとってそれは、最寄り駅から歩いて、家のドアの前に辿りついたときである。


もちろん電車の中でも音楽を聴くが、最寄り駅から自宅までの道のりは特にお気に入りの曲、その時聴きたい曲を流しながら帰る。

そうすることで、ただの帰路が、なにか自分にとって求めていた道のように感じられるのだ。


選んだ曲を聴きながら歩いて、だんだんと自宅が近づいてきて、あと数歩、ゆっくり、ゆっくり歩いて、ドアの前にたどり着く。


そこで音楽が終わっていなかったとき、その曲が終わるまで、ぼーっと外を眺める。


その瞬間、わたしは音楽によって動かされている。


自分と、音楽以外になにも存在していない時間だ。


夏は肌がじっとりと汗ばむのを、冬は吐く息が白くなっていくのを忘れて、そのときだけは、ただ音楽を聴いている。

たかだか1分や2分の話だが、そこにたどり着くまで、無意識の間にせかせかと、足早に歩いていた時間がゆったり流れているように感じられる。

遠くの家の明かりがつくのをたまたま目にしたり、雲が風に流れて月や星がすっきり見えたりするのを、焦点もあいまいなままぼうっと眺めている時間はなににも代えがたい。

その横を人が通らないか少し気にしたりするのも含めて、自分にとって大事な時間だ。

曲が終わりに向かうにつれて、ひとりがこの上なく大好きで、家がこの上なく大好きで、一刻も早く帰りたかったはずが、どこか名残惜しくなってくる。

そうして迎える終わりで停止ボタンを押すと、あたりがいっそう静けさに包まれる。


帰り道に考えていたことが、その曲の終わりと同時にすとんとお腹に落ちるような、自分が元いた場所へ正しく戻してもらえるような感覚になる。


お香を焚いたとき、小さな明かりがふっと消えて、かすかに煙が漂っているときの静謐さと似ている気がする。


一日の終わりに、無数の言葉が飛び交ってうるさかった自分の頭の中を、お気に入りの音楽で静かにする。


朝はバタバタしていて見る余裕もなかったドアの前から見る景色は、木々とくらしの明かりと月と、またたくすこしの星で、そんななんてことない景色を眺めることが自分をふと癒してくれることもある。

こうして自分だけの儀式のような時間を持つということは、まるでいくつ持っていてもバチの当たらないお守りのようだ。



今日もがんばって生きたな。


何かをしたようで、誰かからすれば何もできていないかもしれないけれど、

この瞬間だけは、人から見てどう、ではなく、自分だけは、自分をたたえようと思う。

自分と、自分が大事に思う半径3メートルだけ守れたら、それで良しとしよう。

そうやって日々生きている。


今日は最寄り駅に着いたら、そのあと訪れる静けさを楽しみに、すこし寄り道してみよう。





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