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なぜ冬の朝は静かなの


ついに春一番が吹き、冬も終わりを告げようとしている。

強めの風が吹くたびに、これは春一番なのではないか、今度こそ春一番なのではないか、とまだ見ぬ大地を目指す探検家よろしく、ぺろりと舐めた人差し指を高々と掲げ、風を読んでにやりとしては、翌朝布団から出られずがっかりしていた。


冬は好きだが、苦手だ。

激辛料理のようなもので、その味わいは好きでも身体が拒絶してしまう。

高校生くらいのときから、冬になると気分が沈みがちになり、一切のやる気が失せ、ふさぎ込んでしまうようになった。
これは毎年避けようがなく、もう大人なので最大の努力はするもののどんなに対策をしても多少は出てくるので、諦めて冬眠することにしている。


そして春の訪れとともに、うそのように快活になるのだ。

わりとこういったことに悩まされいている人は少なくないので、どこかで暮らす見知らぬ仲間に、今年も冬を越せてよかったねと思うようにしている。


なかでも、昼夜逆転がひどくなってしまい、それに自己嫌悪しがちなのだが、そんな中でも喜びを見出すことはできる。


冬の朝の静けさだ。


冬の朝は、しん、と音が吸い込まれていくような静けさがあるように感じる。


たしかに静かなのだ。他の季節にはない、ひりつくような時間が存在する。


なぜだろう。
冬の朝が静かである理由を調べてみたが、なんとわからなかった。


冬と音に関連する話はいくらでも出てくる。

雪が降ると、空気の振動が雪の結晶に吸収されて静かになるだとか、気温が下がると音の伝わる速さが遅くなり、遠くまで音が伝わることでいつもは聞こえない音が聞こえるとか、面白い話にたくさん出会うことができた。


でも、「冬の朝が静かである」という理由は一つも出てこない。

自分の暮らす町には、めったに雪は降らない。

むしろ、音が伝わりやすくなっているなら朝からよりいろんな音が聞こえてもおかしくないだろう。


自分の思い込みだったのだろうか。

でも、たしかに夜明け前から早朝のぐっと冷え込んでいる時間帯は静かに感じるし、この世界から自分以外いなくなってしまったような錯覚に陥ることさえある。

日が昇り、鳥の鳴く声ではっとさせらる。





今ここまで書いてきて、気がついてしまった。



自分が冬の朝が静かだと感じていたのは、他のいきものの音がしないからだ。



鳥や、虫の鳴き声、もっと言えば町に暮らす人々の音さえも、冬の朝はめっきり聞こえなくなる。


本来音が伝わりやすいはずなのに静かなのは、そもそも音を発するいきものが活動していないからなのだ。


いきものの音がしないことが静けさに繋がっているのならば、自分が世界に一人しかいないように思えてしまうのも当然のことだ。


実際にいなくなっているのだから。


眠っていて意識がなく、その上自分から姿を目にできないのであれば、それは自分にとっていないのと同義だ。
世界に一人、自分は間違っていなかったのだ。


自分が静かであると感じている時間帯は、自分以外のいきものも動き出す前であり、静かであるには理由があるのだ。

自分以外のいきものが活動していないなら、自分が何もしていないとうしろめたく思う必要などないではないか。

何かをすべき時間じゃないから活動していないのだ。
静かでなくなった頃、自分も動き出すので十分だろう。


大発見だ!調べずとも、自分で冬の朝が静かな理由にたどり着くことができた!わーい!わーい!


・・・もしかして、調べても出てこなかったのは、それがいたって当然のことだからなのだろうか。


いや、なんだっていい。静けさの正体が判明してすっきりした。
(いないことを正体と呼ぶのはおかしな気もするが、無いものをある、とすることは自分が東洋人だからだろうか、けっこう好きなほうだ)


ますます冬の朝の静けさが好きになった。
この勢いで冬に身体が適応・・・することはないだろうが、逆を言えば、自分は活動しない鳥や虫と同じく、真に動物らしい、いきものらしいということだろう。


季節を問わずしゃきしゃきと生活する人間にはなれないかもしれないが、野性を秘めている誇りを持って生きていこうではないか。


春一番が吹き、冬眠から目覚めて地中からはい出す虫のように、走り出すときは、もうすぐ目の前にきている。


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