「女の敵は女」?敵とは何を示すのか

 昨日あるニュースがネットで話題になっていた。なんでもサンリオが作成した新しいグッズに掲載された文言が、男女に関するものが多く、ジェンダーバイアスを助長するものであるという批判を受け販売中止となったらしい。特に話題になっていたのは、問題視された文言の1つである「女の敵は女」という言葉であった。女性ファンの多いサンリオのグッズを批判し販売中止に追い込んだのはフェミニズムの流れを汲んでいたことから、まさに「女の敵は女」という言葉通りの皮肉な結末を風刺する見方が多かった。

 さて、この文の中では別にフェミニズムやジェンダーに関する議論をするつもりはない。近年注目度の高いテーマの一つではあると思うが、批判サイドがどのレベルの意見を言ったのかも良く分からず、また批判のある商品の発売を大企業が見送るのも正しい対応だと思うので、単純に本件で間口の広い議論するのは難しいと感じる。

 それよりも私が気になったのは「女の敵は女」という、今回の件などよりはるか以前からよく見聞きするこの文言についてである。
 おそらく「女の敵は女」という言葉の背景には「女の敵は男(=男の敵は女)」という言葉がある。2つの性である男と女は対立するものであるという基本的な考えがあり、いやいや実は敵はこちら(同性側)にいるんだぞというブレイクスルーがあるため、名言然としているのである。

 一方、実際に女の敵になる可能性のある存在はなにか。まあ、こんなことは誰でも分かっていることだが、性別など関係なく誰でも敵になりうる。男でも女でも性的少数者でもだ。男の側からでも、性的少数者の側からでも同様に誰もが敵になりうる。これを踏まえて主語と目的語を再設定するとすれば「人間の敵は人間」ということになる。

 「人間の敵は人間」、これが事実であることは人間の長大な歴史が証明している。ペルシア戦争、関ヶ原の戦い、フランス革命、第二次世界大戦…etc.人間の歴史には人間同士の争いが時代も場所も問わず散りばめられている。
 では、人間同士で明確に争い始めたのはいつか。従来の説を援用すれば、それは新石器革命(またの名を農耕革命という)からということになる。農耕や牧畜の開始による定住という新しい生活形態が、やがて集住になり、さらには人口増加や土地の確保、人間同士の序列と貧富の格差、ムラやクニの出現、そして、戦争の開始に結び付くという構図は、今や小学生でも習う話である。

 ここからは私の憶測にすぎないが、「敵」という言葉は新石器革命以後に生まれたのではないだろうか。というのも、自らに比肩しうるような存在を指し示す言葉であるからだ。つまり相手が個人であれ集団であれ人間を示す言葉として設計されている。

 日本語の「敵(てき)」の意味はこうだ。 

てき【敵】
1戦い・競争・試合の相手。
2害を与えるもの。あるものにとってよくないもの。
3比較の対象になる相手。

『デジタル大辞泉』

 ここで言うと3の意味が比肩するものということになるだろうか。日本語において「敵」という言葉はただこちらに害を与える相手というだけでなく、こちらが倒すこともできる戦いの相手であり、比較の対象である。

 日本語だけでなく、英語でも考えてみよう。"enemy"という単語はどうやらフランス語から来ているらしい。フランス語で「敵」とは"ennemi"であるが、この単語を分解すると、en+amiとなる。"ami"というフランス語の意味は「友達」。つまり"ami"でないもの、として"ennemi"という単語が使われる。したがって、英語やフランス語も同様に、ただ害を与える存在というよりも、「私」や「味方」に対照的な存在として「敵」が設定されている。

 ところで、新石器革命以前に人間が遭遇する「害を与えてくる存在」は何があっただろう。凶暴な肉食獣や毒を持つ生き物といった他の生物、自然災害、病原菌やウィルスなどが思い付くが、これらを「敵」と呼び、比肩しうる相手とするのは若干違和感がある。動物はこちらから出向くなら獲物だし、向こうからやってくるなら自衛するしかない。自然災害や病原菌の類などは、逃げるか過ぎ去るのを待つかしかない。つまり「敵」は、自然や他の動物を対象とするには、我々に比肩し過ぎているのである。

 新石器革命にて、人類が狩猟採集とは異なる方法で自らの食物を確保するようになったことで、人類は食物連鎖のピラミッドから外れたとされている。しかし、それは人間同士の争いの始まりでもあった。「敵」という単語は新石器革命による大きな社会変革の中で生まれた新たな脅威、つまり人間を示す言葉として出現したのだろうと私は考える。

 以上の考えに則るなら、「人間の敵は人間」という言葉は格言どころか「敵」という言葉の定義になる。人間は、他の何者でもなく同じ人間のうちに「敵」を見出した。これまたよく聞く文言に「敵は自分自身」というのがあるが、比肩するもの・打ち倒すものとして我々が設定すべき「敵」は、外に見出すものでなく中に見出すものなのではないだろうか。そう考えた時、「女の敵は女」という言葉に対する印象もまた変わってくるのではないかと思うわけだが、これ以上は個々人の解釈に任せることとする。


以下蛇足

 "ami"の反義語として"ennemi"があるという書き方をしたが、接頭辞"in-"にはあっても"en-"に反対を意味する言葉があるのかどうか、インターネットで調べた限りでは裏付けが取れなかった。
 接頭辞"en-”には「中に-」「中へ-」という意味の他に、「-にする」という意味もあるようで、例えば"enlarge"は「拡大する」"enrich"は「豊かにする」"entitle"は「権利を与える」とかいった意味になる。とすると、enemyは友達になるものという意味で「敵」と言っているので、「今日の敵は明日の友」みたいな含意があるのかなと思ったが、他の単語と比べて"enemy"は名詞だし、これはただの私の妄想でしかない。

 新石器革命は、狩猟採集をしていた旧石器時代から農耕牧畜をする新石器時代への大きな社会変革を示している言葉だが、実は日本史にはこれに対応する時期がない。メソポタミアなどでは農耕の開始とともに土器を使うようになるので、かつてのヨーロッパ人は人類史における土器製作=農耕と考えていたようだが、土器を使いながら狩猟採集文化を営む縄文人というイレギュラーによって、その公式は破られてしまった。つまり何が言いたいかというと、縄文時代って世界的にも稀有な面白い時代なんですよという話。

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