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2019年5月1日のblogを転載しています◯

「いつか どこかの遠い世界に
黄金のたてがみをもった動物が治める 
自由の王国がありました
愛の力で光にあふれ 
薔薇が咲きみだれる王国がありました


あるとき 別の大きな力がやってきて
光はうばわれ 
薔薇は枯れはて 
王国は封印されました


王は自らの魂の 
永遠の牢獄とひきかえに
何千年のちの夏至の
王妃と民
すなわち王国の復活を
魔法として残し
永き眠りにつきました


それを知らず王妃は 
自らの魂の永遠の牢獄とひきかえに
何千年のちの夏至の
王と民 
すなわち王国の復活を 
魔法として残し
永き眠りについたのです


王と王妃がお互いと王国にかけた魔法は
何千年も眠り続け 
しかしずっと生きていました

いま時がきて 
お互いの魔法により
ふたりの魂は自由に
そして ここに
王国が復活しようとしています」

これは、2014年の夏至に行った、“王国の復活”というテーマでの個展の際につくった物語でした。

不思議なのだけれど、今年以降、につながるリンクだったような気が、今になってしています。

新しい時代への変わり目は、日をまたいでずっと雨が降っていて。
その雨は、ジャンプして飛び込んだ新し「時」を定着させて、「世界」にしてゆくような水。

なんだかそんな感じがしました。

今回の、時代が変わるという出来事は、 "王"性や、"王妃"性というものをあらためて考えるできごとでした。

大きな、神聖な本当の「男性性」というものは、本来、"王"性(そんな言葉はないと思いますが)であること。

王の器、王の威厳、みたいなもの。
Kingshipと言えばいいのか?
正しいのかわかりませんが。


王とは、男性性、本来の、
大きく強く、広い愛の象徴であるのだろうと。

本当の 愛であること、祈りや慈愛、は何にも脅かされない、強く確かなものなのだということ。

本来の、愛、という状態は、
他の何にも、どんな強大な力にも、
影響を受けない。


例えば、本来の愛と、もうひとつの力があるとして。ふたつの力に、片方側からみてVSの関係性があったのだとしても、もっとも強いものは 愛で、それは絶対でいついかなる時も変わらない。恒久的なもの。

たとえ、「別の大きな力」が敵対してやってきても、その「別の大きな力」が自らをどれほど強大なものに見せていようとも、例え相対するものを操ろうとしてこようとも。

本来の、本当の、もっとも強い愛である、"王"にはまったく影響がない。
"王"はただ笑って、何者も相手にもしないというか、何者も王の相手には、決してなれないのだと。


2014年の個展で、冒頭に書いたちいさな物語のかけらをふまえて、実際にその場所で目に見える形にしたかったのは、

「王国に帰ってきた王は誰より強く、広い愛を、帰ってきた王妃は誰より優しく、深い愛を、もっていたこと。そして、その王国に帰ってきた王と王妃は、自分自身、あなた自身であったということ」でした。


本当の、"王"性とは、ひとりのひとの中で、王と王妃のふたりが、完全にバランス、結婚したときに発揮されるだろうもので、その時、そのひとの、本当の世界 ができあがる。

そのひとが、世界、になって、王国が還ってくる。

そこが王国で、自分が王国であったことに気づく。そして、そこからすべてが始まる。


ひとりのひとの中にいる王は、強くて、とても広い愛であって、そして、本当の意味での"王"性は純粋性を伴うので、大概において、完全に成熟し老成した判断力をもちつつも、少年のように自由で。


ひとりのひとの中にいる王妃は、優しくて、とても深い愛であって、こちらも、本当の意味での"王妃"性は純粋性が不可欠なので、大概において、完全に成熟し、「清濁併せ吞む」ようにすべてを受け入れつつも、「清」であることに、少女のように一切の疑いがないのだろうなと。

なんだかそんなことを感じながら、
新しい時代をむかえました。

とめどなく書いてしまいましたが、

おかえりなさいと、ただいま。

“There is your Kingdom,
The place where you are,Where the magic begins.”

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