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平常心

こんにちは。
相場の動揺や乱れ、波動。しかして冷静な自分になるため、先輩には慌て者といつも言われ、常に冷静でありたいと思う願望を記事に。

日常の平常心

 起床し、身支度を済ませ出社する。道すがら、或いはデスクについて予定表を開き隙間なく予定があると「マジか」と思う。しかし、予定が空っぽだと「不安」になる。身勝手なものである。
 禅の教えに「平常心」という言葉がある。般的な意味として、

 「普段どおり」
 「肩に力の入っていない」
 「リラックスした状態」

とある。

平常心の語源

 「平常心是道

ある禅師の語録にある言葉である。

 負の連鎖という状態は、

 何をやっても上手くいかない。
 失敗を繰り返し、悲嘆や絶望。

しかし、禅の教えではその「負の連鎖」の状況こそ、その心にこそが悟りがあると教える。普段の当たり前の心こそが道であると説いている。
 道とつく言葉は多くある。その道は、それぞれの分野で様々なことを教えてくれる。特別な何かというわけではなく、

 日常そのもの、当たり前のことに悟りがある

日常とは

「日常」とは何の造作を加える事もなく普遍的なもの。
 しかし、自分自身の感じ方の変化は、自分自身が少しばかり人間的成長することで、その感じ方・受け取り方が変化する。場合により、その成長度合いで劇的に感じ方・受け取り方が変化してしまう。
 判断基準とは時々刻々変化し、それらを判断の「尺度」も頻繁に変化。

 その尺度を捨てることがストレスから解放される唯一の手段

つまり平常心とは、普遍的な日常を突き詰めると明確になる。日々の成長における成長や成功は雑音・雑念などが平常を乱す。ストレスとなる。
とはいえ、成功を捨てるなど人間なかなか出来るものではない。
 禅の修行は自給自足が基本。一汁一菜で、朝は少しのお粥、食材は皆で畑を耕して賄う。利休は「茶の湯とはただ湯を沸かし茶を点てて飲むばかりなるものとこそ知れ」と言っている。

千利休(戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人)
 わび茶(草庵の茶)の完成者。茶湯の天下三宗匠。多くの弟子を抱え子孫は茶道の三千家として続いている。秀吉との関係に不和が生じ、最後は切腹へと追い込まれる

柔軟な心の持ちよう

 平常心とは「いつもどおり」や「リラックス」ではなく、

 「何にも囚われることがなく、素直な心」

と理解すると落ちる。
 「農」という字は、田(曲となっているのは、変化した形)と辰からなっている会意文字。辰は象形文字。二枚貝が殻から足を出す。つまり貝殻で草を切る、ひいて田を耕すと解し、土をやわらかくする。
従って、人に例えると、

 「囚われている自分の心を、ほぐすこと」

 禅と農業のつながり。日常のどんな些細なことも疎かにせず、日課として、一つ一つの事柄を丁寧にする。それが世間でよく言う平常心と解する。