雑草エンジニア回想録④芽生え
1997年10月頃、夜の帝王を目指すべく歌舞伎町の大手キャバクラを入店したもの、余りのタイトさに嫌気がさして無職となった。
ここまでの過程は、以下のnoteも是非お読み頂きたい。
晴れて無職となった私は、大学生の頃にお世話にお店に事情を説明して再度働かせて欲しい相談をした。呆れた様子で店のママ・マスターが相談に乗って頂いたが、丁度黒服の1人が4月に専門学校を卒業して1人欠員した後だった。
10月頃から繁忙期に入るため、入店を許可され再度古巣で働くことになった。ちなみに繁華街のおよその繁忙期を記すと以下になります。
12月
1年間で最大の繁忙期となる。サラリーマンの方々が冬のボーナス時期で財布が少し緩む時期となる。会社の忘年会もあり、2次回の締めとしてご利用される方も多かった。更にクリスマスシーズンでは、独身男性が綺麗な女性の精神的な癒しを求めに来店する。
9月
夏のボーナスを使い切っていない方々が、秋のGWなどの長期休暇前に来店されるケースが多いだろう。この時期になると企業の半期締めが終わる時期なので、9月中旬から12月に向けて徐々に客足が増えていくという感じだろう。
3月
会社の送別会シーズンの2次回として利用されやすい。
4月
新入生歓迎会の後に、きっぷの良い先輩社員がお目当ての嬢を口説くために若手の新入社員を連れてきていた。
逆に閑散期といえば、
2月
水商売だけでなく接客業・サービス業でも昔から「ニ・八」(ニッパチ)と呼ばれ年間を通して客入りが一番少ない時期です。冬のボーナスを支給されたサラリーマンが、12月の忘年会・クリスマスや1月の年始でお金を多く使い2月は財布の紐が固くなります。更に企業の3月末決算期に向けて、仕事が慌ただしくなる事も背景にあるでしょう。
8月
夏季休暇(お盆)に実家に帰省されてお休みモードになるため。
2・8の月は、経営者のママ・マスターもイラつく時期であり、営業成績の悪いホステスが解雇される時期でもある。
さて、古巣の店に復帰した時は非常に面白かった。お客様、ベテラン女性スタッフ、男性スタッフが私の事を覚えて下さっており、自分がIT業界を逃げ出してきた事をネタにしてくれた。
半分位のホステスが世代交代はしていたものの、店の状況把握や仕事の仕方は身体が覚えていた。その店で働く喜びは、店内が繁盛して大忙しな時におけるホールのラウンドだろう。
同時多発的にマルチタスクが発生して、お客様・ホステス・経営者の3者3様の様子を瞬時に判断して、優先度を決めてテキパキ動く。慌ただしさに必死についていくだけでも、時間の経過があっという間に過ぎて、お店終わりには体と頭をフル回転させた心地よい疲れがあった。
特に、私は囲碁や麻雀などの読みの競技が大好きで、水商売の全体を俯瞰した上で全ての立場の人々にとって、自分が最適な行動をするための読みと観察しなければならない所が読みの世界と似ていた。
水商売に復帰すると、毎日が楽しかった。
仕事終わりに、水商売仲間と気軽なスナックで飲みに行く事が日課になっていた。週末には、そのまま雀荘に通うこともあった。
そのような中で、美人な水商売のお姉様とお付き合いするようになった。
付き合うようになってから、双方引っ越ししたいと考えていたので、二人で物件を探して新宿近辺のアパートに同棲するようになった。
相手の女性は、どこの店舗でもNo.1を取れる位の方だった。どこか田舎からでてきたおっとりした所もありつつ、彼女の家庭が苦労しており生活感や仕事に対する考え方も非常に素晴らしい方だった。
哀しい事に私の手取りは25万円前後であり、彼女は最低でも月80万円以上は稼いでいた。私の親父のようにフーテンの寅さんの父親だったようで、母親や娘達に金銭的に苦労をかけていたため離婚となり、その後の家計を彼女が水商売で支えているような優しい子だった。
幸せな同棲生活を3ヶ月経過した頃だろう。
自分勝手な想いだが、生まれて初めて結婚願望が芽生えた。
それから、このままで良いのかという葛藤が生まれだした。
恐らく彼女の望む事は、最低でも自分が働かなくても経済的に安定した上で、彼女のお母さんに何かしらの形で支援できる力強い男性を求めていたと思う。ここでの支援とは、お母さんの家賃位のサポートもしくは3LDK位の住まいでお母さんも一緒に生活するという感じだろう。
そして、私の将来像も薄っすらとだが想像してみた。
彼女と結婚して最低1人の男の子を育てて、立派に成人させる事、それまでに私が幼少時代に寂しい思いをしたので、パパらしく週末には家族でレジャーに出かけたり、そして子供の授業参観に参加してみたり。
すると、現在の水商売は楽しくて充実した仕事だったが、先が見えない事に気がついた。例え、現在のお店で月50万円以上の給料になるのはいつだろうか?更に夜働いていると嫁や子供とのすれ違いをどうすれば良いのか?
駄目だ!
夜の世界の酒・たばこ・女・博打という快楽に溺れ、歌舞伎町という大人の遊園地という刺激に溺れては、彼女を幸せにできないと判断した。
そして、記憶を呼び起こし24歳までの人生をたどった。
やはり、考える事や何かしらの物作りが大好きだ。
大学も情報工学系を選択している。囲碁や麻雀という考えることを選択している。小学校の頃には小遣いを貯めて、ファミコンに付随するファミリーベーシックでプログラミングをしている。
一度打ちのめされたIT業界をやり切ってのし上がる!
もう一度、諦めずに挑戦してみた方がいい。
私は、彼女に事情を説明した上で水商売を辞めて、IT業界に就業する旨を伝えた。その上で店の経営者にその旨を報告してお店を辞めた。
1998年6月前頃に、当時の転職情報誌DODAに掲載されている以下の広告に目がついた。
1998年当時の開発では、オープン系からWeb系に切り替わる時期だった。
1996年にサンマイクロシステムズからリリースされたオブジェクト指向言語のJavaは、当初Appletという貧弱なWebブラウザに開発したアプリを描画するという言語だった。
それでも、ブランクのある自分にもIT関連の雑誌を読んで、このJavaという言語のポテンシャルにピンときた。新しい言語のJavaという技術を先行的にバリバリやれる技術者は、年数的に少ないと判断した。
その上で、24歳までのフラフラ思いつき人生で、同級生エンジニアと基礎力で先行されてしまったが、Web技術・Javaという新しい空間では全員が用意ドンの世界だ。
コンビ二で履歴書と証明写真を用意して、急いで○○〇〇会社に面接依頼をお願いした。
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