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囲碁と私

私は桜が散り新緑に変わるこの季節が大好きだ。自分が毎年寒い冬になると持病が悪化して体調が非情に悪くなり、生きた心地がしない。
そんな自分にとっては、恐ろしい冬の時期を乗り越え綺麗な桜の開花を鑑賞する度に新たな1年間が始まりを迎え、来年のこの時期まで生き抜くぞという気概になれる。

そして、毎年このシーズンになるとご褒美としてアマチュア囲碁の三大タイトルの地区予選が開始される。若い頃は、仕事や恋愛や遊びで大会の参加が疎かになっていた時期もあった。

それが、自分の寿命が恐らく5~10年以内だろうと身体の軋みを感じている日々の生活から、この毎年同じ時期に開催されている囲碁の通年行事が実施されている有難みを肌で感じている。

そして、体調と精神力の低下と闘いながら、全国大会に心底出場したいと思って参加し囲碁を対局している時には、自分の命を燃焼し今まさに自分自身が生きている実感を一番感じる。

私の人生は既に囲碁でいう整地とダメ詰めのフェーズに入っているだろう。右足半分棺桶に入っている状態の自分だが、囲碁をやってきてお蔭でこの整地やダメ詰めのフェーズに生き甲斐と生きる楽しみを提供してくれている。

そんな、囲碁人親父の囲碁を学ぶまでの過程を記したい。

1.白髪鬼軍曹の教育

私は0歳~5歳までの幼稚園に入る前までは、大阪付近に在住していた。
場所は、忘れてしまったが新大阪周辺の木造平屋2階建ての住まいに2世帯生活をしていた。爺様・婆様・母親・私、母親の兄弟と結構なサザエさん一家だった。住まいは明治時代の日本家屋の感じがあり、目に着くものは全て木を素材にしていた。

親父は、不動産屋を東京でしており飛び回っている事が多かったので、関東で自宅ができるまでは、単身赴任のような生活をしていた。

大阪在住時の教育係は、両親ではなく爺様だった。

祖父は、新聞社か出版社に勤めていたようで、非常に厳しかった。そして、困った事に爺様は、父親がかなりの遊び人であるという事を把握した上で長男である私だけは、立派な侍のような日本人に育てたいという気持ちが異常に強かった。

祖父は、戦争を経験しており昭和初期の日本の教科書から出てきたような人物だった。3歳児というのは、男の子とも女の子とも言えない中性的な動作をする時期だと思うが、私がちょっとでも、女々しい態度を取ろうものなら大衆の面前でも爺様の罵声と共に酷い時には貼り手が飛んできた。

今なら狂った爺様が孫にDVをしていると通報されて、社会問題になってもおかしくもない状況だろう。大阪の実家にいる時には、この白髪鬼軍曹の教育で良い思い出が無かった。

そんな爺様は、囲碁を趣味としており三段位の実力だった。父親も母親も初段前後の腕前だった。そして、4~5歳児の無知な私に対して、ここでも鬼軍曹の鬼囲碁入門が始まった。

軍曹が大きな厚みのある碁盤を取り出し、私に囲碁を教え始めた。
鬼軍曹と私のやり取りはいつも決まっていた。囲碁を始めて開始5分位で自分の集中力が欠落し、動作に落ち着きが無くなり始めた瞬間に鬼軍曹から罵声が飛んだ。

「貴様、それでも日本男児か!」

その瞬間にワンワン泣き崩れ、更に泣いている姿を見た軍曹が更にキレてしまいには手を出だされた。その大きな鳴き声に2階にいた母親が、

「お父さん、御免なさい。それ以上は堪忍して」

とお袋も泣きそうな声で止めに入り、自分を抱え込んだのを記憶している。

残念ながら私の囲碁デビューは、人生最悪の想い出です。そして、この時期は碁盤と碁石を視ると鬼軍曹の恐怖が鮮明に思い出されて一番嫌いな競技になってしまった。

2.遊び人の教育

私の父親は、団塊の世代を象徴するような遊び人だった。私の母親と結婚する前までに既にバツ3で、競馬・麻雀・バカラ・パチンコ・酒・グルメ・女遊びと年がら年じゅう博打と女ばかりの人だった。

大阪から関東圏に住居を構えて、家族団欒を楽しむ家庭になるかと思えば、週に1回帰宅する程度だった。本人は不動産の仕事で全国飛び回って忙しいと言い訳をしていたが、実際には自分の会社の美人の秘書と不倫や博打三昧で遊びまくっていた。日本もバブル経済だったので、不動産屋は都市開発しそうな開拓されていない土地に目星をつけて、適当に転がしてけば儲かるじだった。

そんな親父は、私が爺様との体験から囲碁に拒絶反応を示しているのを理解した上で、毎週末1時間程度碁を教え始めた。

多分こんな感じだろうか?
ルールを全く知らない自分に対して、遊び人の親父は自由に何処にでも石を置いていいからと優しく語ってくれた。

意味が分からないなりに大きな碁盤に黒石を置く毎に、遊び人の父親は満面の笑みで私に語り掛けていた。

「いい手だね」
「大きな手だね」
「最高だね」
「この辺り雄大だね」
「囲碁は向いているね」

親父はどんな所に石を置いても楽しそうだった。
そんな遊び人の親父との週一の囲碁もどきの遊びをしている内にルールの分からない囲碁が、親父の笑顔がみられ自分も楽しくなってきた。

そして、段々と囲碁は陣地を囲い大きさを競うゲームだと理解し始めた。親父のコミュニケーションも自分の理解度によって変化しだした。

「一間飛びと言って今の一手は最高に良い手だね」
「一間飛びに悪手なしという格言があるからな」
「一間飛びは相手から絶対に切断されないからな」
親父に「一間飛びに悪手なし」というのを聞いてからは、兎に角一間飛びを飛べる所を必死に打った記憶があります。

「自分の石と石が繋がるように打つといいんだぞ」

このような囲碁の基本的なアタリ、コスミ、一間飛び、ケイマ、大ゲイマなどは全て親父から教わったような気がします。

親父との週一のコミュニケーションは、小学校3年生前後の自分にはとても楽しい一時であり、父親の存在を感じるツールとして囲碁があった。

そして、人生を振り返ると女にもだらしなくお金にも少々だらしない親父だったが、この親父との週一の囲碁が一番親父にとっても自分にとっても幸せな親子との時間だったと感じる。

3.碁会所と日本棋院

父親との週一の囲碁を続けていく内に、自発的に強くなりたい、もっと囲碁のルールを知りたいと思うようになった。それと同時に親父が日本棋院出版の囲碁入門の小さな書籍を何冊か買ってくれた。

当時の私は、国語は最も嫌いな教科の1つだったが、不思議と囲碁入門に書かれている日本語は理解し易かった。九路盤で描かれていたちょっとした図を眺めているだけでも面白かった。

例えばこんな図だろうか。黒先黒活き。三目中手を理解する入門者の問題です。黒から打つ場所は、3か所候補があるのですが正解は真ん中しかない。
そして、書籍には、丁寧に3か所全ての変化図が掲載されていたと思う。

入門書と碁盤を片手に分からない所を母親に聞いて、週末の親父との対局で実践するということを続けた。色々と囲碁の基本的な事を理解していく内に更に囲碁を勉強したいという気持ちになった。

その様子を感じ取ったお袋と親父が、日本棋院の初級者コースに通いなさいと日本棋院の会員になり初級者コースに毎週通い始めた。
それと同じ頃に父親や母親に連れられ地元の碁会所に週末通いだした。
碁会所というと口うるさい爺様が一杯いるようなイメージを抱える人もいるでしょうが、当時の自分には、楽園だった。

周囲の中年おじさんやお爺さん方全員が自分を懸命に褒めちぎってくれた

「小学校何年生? そうか3年生か凄いな!」
「凄いね、これなら直ぐ初段になれるね」
「○○君偉いね。これからも頑張って」

私が幼少期の頃に囲碁で不愉快な想いをした事は一度もなかった
周囲のおっちゃん達が恐らく上手にさじ加減してくれて、細かい僅差で勝つように仕向けてくれたり、接戦にしてくれたからだろう。

小学校の時には市ヶ谷の日本棋院に通うのは正直大変だった。行きは座れてよかったのだが、帰りはサラリーマンでごった返していた。それでも週1回の勉強と対局は楽しくてしょうがなかった。

確か、初級コースから開始してアマチュア10級~四段になるまでは、ストレートで昇級昇段したと思う。毎月1回1級上がって日本棋院から発行された級位認定証を受け取るのがとても嬉しかった。

級位認定証を持ち帰る度に母親と週末の親父に見せるのが、その時の一番の誇りだったと思う。

4.囲碁に支えられる

都内に2階建て6LDKのマイホームを持つ、自分はお金持ちの子のボンボンだったと思う。小学校4年生までは。

私が小学校4年生位になると日本経済のバブル経済が崩壊し始めた。当時のバブル経済では万札が100円玉のような扱いで、不動産や株そして高級商品などを転がしていれば適当に儲かる時代だった。

それがバブル経済の崩壊により、我が家もモロに直撃した。
親父が借り入れをして購入した多くの土地は、買い手がいなくなり不良債権化した事により資金がショートする。その結果都内一等地に構えていた親父の事務所は畳む羽目になり、数千万の借金だけを残して愛人と逃避行してしまった。

勿論お袋は、調停離婚をして親父と離婚する結果になり、親父は晴れてバツ4になり、お袋はシングルマザーとなってしまった。
離婚しただけならば大した事がないのだが、債権の取り立てのために我が家にパンチパーマをした本職の兄さん立ちが取り立てに連日来た。閑静な住宅街の狭い地域だったので、近所の人には直ぐに有名になった。

当時の大変厳しい状況は、小学生4年生の私には理解できていなかった。
小学校に通うこと以外は囲碁に全振りしていたお蔭もあり、殆ど自宅にはおらず、日本棋院もしくは週末は殆ど碁会所に出ていたため、怖いパンチパーマのお兄さんとは直接接していなかった。

私が高校を過ぎた頃に、母親からお金の工面と取り立ての厳しさや地域住民の建前など色々悩み一家心中する直前まで、追い詰められた事実を笑い話にされた。

マジッスか?

私が囲碁を必死勉強している中、子供には苦労と心配をかけないように要らぬ情報は伏せていてくれたお蔭で囲碁に集中でき、小学校も無事卒業できた。

もし、囲碁を習うことをしていなくて、自宅にいていたらVシネマのような場面に立ち会っていてたら、恐らく精神疾患になっているか引きこもりになっているか、それか思いっきり悪の道に染まり極めた道の人の住人になっていたかも知れない。

囲碁という競技で自分は、非常に救われていたと今でも振り返ると感じる。

5.まとめ

今、囲碁界は大変厳しい岐路に立たされていると思います。
私も人生50年近く生きてきて40年近く囲碁を続けていますが、囲碁のお蔭でどんな時期にでも大変有意義に過ごさせて頂きました。

囲碁のプロ棋士の先生はもっと自信を持って欲しい。

多くの子供達や青年が生涯感謝しているという事を忘れないで欲しい。

そして、私は生きている間に囲碁界が発展するヒントをこのnoteに綴っていきたい。

そして、今回のnoteで伝えたい事は、囲碁の入門を普及させる事で最も大切なのは、週1回決まった時間に気の良いおっちゃん、ねーちゃんが何処に打っても褒めちぎって、信頼関係とコミュニケーションを高める労力を働けば自然と囲碁という魅力のある競技に人は自然と惹きつけられるという事を伝えたかった。

遊び人の親父は既に亡くなったが、フーテンの寅さんでも私に囲碁の楽しさを教えられた位だから、プロ棋士やアマチュアの指導員ならば囲碁のルールを知らない多くの方々にその面白さを必ず伝えらえるはずだと思っています。

多分、囲碁人が減少したのは多様化したマルチメディアが主因では有りません。棋士道を追い過ぎたり、自分達の価値を高めようとし過ぎて俯瞰して囲碁界全体を視れていない事が原因です。今の若い子達の特性を理解出来ていません。

3~15歳までを重点的に無料囲碁入門コースを都内だけでもやり切れば必ず囲碁は復活します。そして、指導料、講座費用、碁会所の席料を頂くのは、10級からでいいんじゃないと思う。

次回は、「初めて囲碁を辞めてしまった物語」を提供します。

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