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話すとは放すということ。


私のお守りのような友人が、深夜の電話で言ってくれた言葉。
なるほどなぁ〜と思った。何かを発言した時に、「局所的な一点のみにフォーカス」されて、「それは違うんじゃないか」という考え方や意見があることに、正直残念で面倒くさい気持ちになるので、あんまり言いたくないんだけど、まぁ、ここは自分の足跡をつけている場所で、私が私自身を観察している場所で、少なからず私が書くことによって私が昇華(消化?)されている場所なので、今回も自分のために「書く」。

noteを始めたきっかけは「自分1人で出来ること」を探していたから。2人の判断が必要なものじゃなくて「私1人の判断で良いこと」をやりたかったから。あとは父のことを昇華したかったから。「忘れる」のではなく、ちゃんと書き留めて、言葉にして、自分の感じた濃ゆい感情をもう少しライトなものにしたかったから。

noteに書くという行為はどこかで「話す」という行為と同じところがあるなと私自身は感じていて、だからその友人が言ってくれた言葉がすーっと馴染んだ。自分の知識や発見を教えてくれる人、脳内にある世界観を言葉にして見せてくれる人、表現は多種多様。あまりにも上手な文章を読んでしまうと気が引けてしまうのも事実。私は難しい文章も崇高な文章も書けないので、本当に「話を聞いて欲しい」くらいな感じでしかnoteに綴ることができない。自分で書いていて「稚拙な文章だな」と鼻で笑っちゃうくらいな感覚でここ(note)にいる。

前回、そんなことを感じながら記事を書いた。私が大事にしているものや心に留まったこと、感じたことを「聞いてほしくて」書いた。
でもこんなふうにしか書けない自分がなんだかなーという気持ちもあった。
あの人みたいに、あんなふうに書けたのならいいのに。そんなふうにも思った。

そしたらコメント欄でやすこちゃんが「Shiho 節の香り。」と言ってくれた。ああ、そんな風に感じてくれるんだなと。この一言で私は実はすごく救われた。やすこちゃん、本当にありがとう♡


本を数多く読むこともない。文章で認められたいとも、認めてもらえるとも思っていない。良い文章を書く努力を自分に課すこともしない。他人様の大事な時間を、、、とか、申し訳ないけど言うつもりもないし、大事な時間なら私に割いてもらおうなんて、これっぽっちも思っていない。そのくらいの文章しか書けないし、書いていない。


それでも。

私は自分がここ(note)に居たいなと思う限りは話させて、書かせてもらおうと思っている。そして私と繋がってくれる人と「丁寧な会話」をしたいと思っている。


話すとは放すということ。
だから私は書いているのかもしれない。
そして私の「話」にお付き合いくださっている皆様、
本当にいつもありがとうございます。






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