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35 桜 (2)

 
私には姉と弟がいる。姉はちょうど2人目の子供を産んだばかりで、1番忙しい時期だった。弟は実家から同じ県内ではあるけれど、まあまあ離れた場所に住んでいた。帰ってくるにも車で2時間強はかかる距離だ。

私は高校卒業と同時に実家を離れた。
私は家族の中でも風変わりだから、親が望むような生き方は出来なかった。いつも申し訳ないなと思っていたし、私の生き方や考え方を最初は理解できずに、時には声を荒げて喧嘩をしてきた父と、今のような穏やかな関係を築けるようになるまでにはそれなりに時間も掛かった。

それでも父は私が大好きだった。それは知っていた。姉もよく言っていた。「お父さんはしほちゃんが一番好きだよね」と。私もそう思っていた。
姉や弟とはするはずもない、長文のメール交換や大喧嘩も何度かあった。



一番の大事件は姉が結婚した年の年末年始、私は久しぶりに実家で過ごした。姉もいなくなり、両親が年末年始、寂しい気持ちになるかなという、勝手な親孝行のつもりだった。
元旦に初詣にと白馬にある神社に向かう車中、父と口論になった。口論の内容は私の仕事に関することと、世の中の間違った偏見に基づく差別についてだった。私はこの差別的な考え方を認めるわけにはいかず、ここだけは今がどんな状況であれ、戦わなくてはいけない内容だった。
最初は我慢したのだけれど、父のそれは止むことがなかった。最終的に私は土地勘もないこの地で、吐き捨てるように暴言を吐き、泣きながら車を降りた。呼び止める両親を振り返ることなく、とにかく父から離れたかった。一緒の空気を吸いたくなかった。息ができなくなると思った。


その後、喫茶店に入り、ひとりで泣きながら持っていたノートに父への気持ちを書き殴った。それはほぼそのノートを埋め尽くした。
とにかく元旦早々、ひとりで泣きながら入ってきた女の客がひたすら泣きながらノートに何かを書いている、、、その状況をお店の人はどんな気持ちで観ていたのだろうと、今でも思うことがある。

その後私は姉夫婦に電話をして、2人が迎えに来てくれた。何も聞かない姉の旦那さんは本当に心が優しい人だった。なにも言わずに気分転換にとドライブに連れて行ってもらい、その日の夜、私は叔母の家に泊まった。全て姉が手配してくれた。
叔母は私に誰も知らない叔母の過去を話して聞かせてくれた。今回の大事件が起きなければ、一生聞かなかった話なのかもしれなかったと思うと感慨深く、またそれを話してくれた叔母には本当に感謝している。


翌日、母と2人で小布施に出掛け、父は少し前に「俺はしほちゃんが羨ましいのかもしれない」と言ったことがあるということを聞いた。昔の、4人兄弟の長男。周りから期待され、その期待に沿うことが自分の誇りであり、プライドであった人。今思うと相当な努力をしてきたと思うし、恐らく実力以上の結果を出してきた人だと思う。沢山の苦労や辛いことも経験してきた。が、それと私の怒りは別のものだと今でも思うが、それでも父の私に対する気持ちが理解できなくはない。結局その話はうやむやになったままだ。ノートに書いた私の気持ちは父に届いたのかどうかは分からない。因みに父が死んだ後もそのノートだけは見つかっていない。

そんなことがありながらも、父は自分の会社の女性社員さんが退職する時には私の作った革の鞄を贈り物にとよく選んでくれた。
母は常に父の後をついていく人だった。何か重要なことを決める時にも昔から「お父さんに聞いて」と言うことが多かった。私は「お母さんの意見」が聞きたいのに、、、と常々思っていたが、半ば諦めていた。そういう人だったので、いざという時の母はとても弱かった。なので今の私が出来ることは母の近くにいることでもあった。




自分の仕事を放って、自分を犠牲にしてよくやったと周りの人は褒めてくれたけれど、私からすると「やらせてもらった」感が強かった。
自分自身が後悔しないために、そしてたまたまそれが出来る状況にあるということ、姉や弟にも「しほちゃんに任せよう」と思ってもらえるように、とにかく出来る限りをしようと思った。
姉は「自分の子育てでいっぱいいっぱいで、沢山関われなくてごめん」と言ったが、姉は可愛い孫を産み、父を喜ばせてくれた。私はこれが出来なかった。自分の意思でしてこなかったこと。姉には感謝しかない。そう思っていた。

友人や仕事を通じて出会った方々に、十分な説明ができないまま、この数日間でまとめた資料やノート、少しの衣類、ノートパソコンを持って4/6には実家に帰った。これからお金も掛かるだろうと長距離バスに乗った。
いつもはバスに乗るとすぐに寝られるのだが、この時は全く眠れなかった。正直、とても怖かった。
これから何が起こるんだろう。私は何が出来るのだろう。




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