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35 桜 (7)


家まで歩いて帰った後、母に緩和病院の話をした。
この後、夜遅くに診察に来てくださること、病院の理念、考え方。
そして今の父の状況を考えると、自分たちに父の苦痛を取り除いてあげられることは出来ないという現実。そのために適切な対応をしてくれる病院に行ったほうがいいという、私の希望。
母はまだ完全には納得していない様子ではあったが、私が下した決断に理解を示してくれた。


夜になって、先生が往診に来てくれた。
父が寝ている部屋に行き、優しく父に話しかけてくれた。
「ああ、辛いですね。もうちょっと良いお薬がありますので、今日はそちらを出しましょうね」「そうしたら少し楽になるから、今日は夜眠れますよ」
注射を打って、父は少し楽になったようだった。
その日は本当に久しぶりに眠れたと翌朝言っていた。

母と私には「弟さんの結婚式までは頑張れるかもしれないけど、少しずつ様子を見ながら頑張りましょう。ひとまず一度、入院してもらって、少し回復したらきっとお父さんもお家の方が良いだろうから、一旦退院して、その時はまた往診しますし、もしまた悪くなった時に病床が空いていれば入院してもらうことも可能だから、細かく様子を見ていきましょう」とおっしゃってくれた。
母は先生の的確な説明と、父への対応の良さですっかり先生を受け入れた。きっと私が困らないように、母に分かりやすく説明してくれたんだと思う。





翌日の4/23に緩和病院に再入院した。
父の弟である叔父さんが車を出してくれて、4人で病院まで行った。

病院に行く前、辛そうな父はまたお風呂に入った。そして丁寧に髭を剃った。父は肌が敏感で、電気カミソリが苦手だった。温かいタオルで顔を蒸らし、いつものように髭を剃り始めた。剃り残しもあったけれど、時間もものすごくかかったけれど、ちゃんと自分で剃り終えた。

叔父さんが来て、病院に向かう時間が迫っているのに、父の髭剃りが終わらない。母は少し焦った様子だったが、叔父さんは「いいよいいよ、大丈夫だよ。そんなの遅れたっていいんだよ」と言った。
車に乗るときも上手に屈めず、苦しそうな父は動きがとてもゆっくりだった。思わず手を貸しそうになったが、叔父さんが私にこっそり言った。
「いいよ、ゆっくりで」
ハッとした。叔父さんの、兄貴である父への最大の気持ちがここにあった。
いつもしっかりとしていた兄貴。真面目でプライドが高くて努力家で、そんな父が今までで見たこともないくらいに弱って「俊雄、悪いな」と枯れた声で言った時、叔父さんは「いやいや」と飄々としていたけれど、きっととても辛かったと思う。
つい、自分のペースで物事を見がちだけれど、こういう時に相手のペースを大事にするということを、私は叔父さんのこの行動で学ばせてもらった。



病院について、母はひとまず病院内を案内してもらい、父は病室へ入った。
先生が「薬を変えながらいけば、言われているよりももう少し長く生きられるんじゃないか。あんまり辛いのは可哀想だから、様子を見ながら少しずついきましょう」と言ってくださったので、私の心づもりとしては「また明日から頑張ろう」という明るい気持ちになった。

父の病室に暫くいて休憩室に行くと、夕方に遅い昼食をとっている先生を見かけた。先生があまりにもハードなスケジュールで動いていることを知り、「先生もお身体、気を付けてくださいね」と声を掛けた。先生は明るく冗談を言ったりして、本当に話しやすい状況を作ってくださる人だった。分からなことは何でも聞けたし、何より説明がとてもわかり易かった。

しばらくすると母がきて、父の必要なものを買いに行くから一緒に、、、と言われ、父に「また明日、来るからね」と告げ、その日は病院を後にした。買い物を済ませ、母だけもう一度病院に戻り、私は母と別れて家に向かった。


家に帰ってきた母が、父に「もう少しここにいてくれ」って何度も言われたと気にしていた。父はこの時点でかなり辛そうで、少し言葉もおぼつかなかった。いっぱいの気持ちや話したいことがあったのだろうと、今となっては強く思う。でも思うように話せない。そのくらい体力的にも気力的にも弱っていたのだと。
もっとそこに気が付ければよかった。私がこの父の死に対峙した期間の中で、気を抜いてしまったというか、頭がまわっていなかった時だったと思う。上手に話せていなくても、目を閉じてベッドに寝ていても、どうであっても、あの時、夜遅くまで病院にいれば良かった、一緒に病院に泊まってあげればよかった。そう思う。





翌朝、病院に行くと「昨日の夜に1人でトイレに行って転んだ」と看護師さんに聞かされた。いつでも呼んでくださいと言われていたのに、父は1人で個室の中にあるトイレに行って転んだらしい。病室に行くと、ベッドで寝ている父の姿があった。
心配になって先生に聞くと、転んで怪我とかはしていないから大丈夫。容態も安定してるから、大丈夫ですよと言われた。
少しして再び病室に行くと、父はかすれた声で「ベッドが眠りにくいから、昨日の夜は床に布団を敷いて寝た」と言った。
父は「布団は硬め派」だった。父らしいなと思いながらも、気が付いてあげられなくてごめんねと思った。

父の病気のことは親族以外には話していなかった。ただ数人、父の親しい友人が電話をくれていて、母もそのうちの一番仲の良い深澤さんという方には緩和病院に入院する話をしていた。その深澤さんがこの日、病院まで訪ねてきてくれた。

父の病室から出てきた深澤さんと話をした。深澤さんは目を真っ赤にして泣きながら「こんな時にも彼は「汚い顔してて、ごめんな」と言うんですよ。ちゃんと髭が剃れていないからって。彼らしいでしょ。自分が大病をして手術をした際にも彼には本当に励ましてもらって。だからまた一緒にゴルフ行こうなって言ったら「入院続きで筋肉がすっかり落ちちゃったから、まずは鍛え直さなきゃ」って、あんなに苦しそうなのに、そう言ったんだ」と教えてくれた。ちょうど病院に来ていた姉と私と母と4人で泣いた。
父は本当にいい友人がいたのだなと、嬉しく思った。ただちょっと朦朧とした感じだったと言われたのが気になり、再度先生に診察をお願いした。
すると容態が急変していて、父はかなり苦しがっていた。


「ベッドが眠りにくいから、昨日の夜は床に布団を敷いて寝た」ことを知っている看護師さん達が、別の広い部屋中に厚めのマットを敷き詰めてくれ、何人かがかりで父をその病室に移してくれた。
ベッドで寝るのが嫌な、父への気遣いがとても有り難かった。
そこに横になった父は、本当に苦しそうだった。
3人くらいの看護師さんがかわるがわる父についてくれ、苦しがる父の体を擦ってくれた。私も擦り方を教わり、父が呼吸しやすいように、ずっと父の横に座って体を擦り続けた。

先生に呼ばれ、「今朝までは安定していたが容態が急変した。ちょっと危ないかもしれないから、必要な人には連絡を入れて」と言われた。
この辺りの記憶が遠い。ところどころのシーンは覚えているんだけど、部分的な箇所は曖昧だ。姉もいたので、姉が連絡をしてくれたのだろう。

この時点で先生にモルヒネの話をされて、私がサインをした記憶がある。心臓が弱ってきているから、と伝えられた記憶もある。
強いモルヒネを打った場合、もしかしたら最期になってしまうかもしれないという可能性があるということ。
私は先生に弟にも会わせてあげたいので、そのタイミングは私に一任して欲しいとお願いした。



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