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35 桜 (3)



長野はまだとても寒かった。着いたその足で病院に向かった。

久しぶりに会った父はすっかり老いていた。
まだ66才なのに、体格も良く、はつらつとした印象の父だったのに、頬が痩け、疲れたような顔をしていた。体調が悪いというのがよく分かった。
本人は自分に起きている状況を知らなかった。ただ前立腺肥大の影響で入院しているのだと思っているようだった。なので、早く退院したい、退屈だとぼやいていた。
主治医も母も、父に今の状況や余命を伝えることを拒んだ。拒んだという言葉が正確かどうか分からないが、この段階では伝えることはなかった。

私はなるべく元気な様子で声をかけ、しばらく病院にいて母と家に帰った。
とにかく早くセカンドオピニオンを受けさせたかったので、主治医の先生の名前を聞いて、その手続きやまずは今の状態など詳しいことを説明してほしいとお願いした。病状の説明はすぐに対応してくれるということで、父を除く家族4人で聞くという方向で話が進んでいた。




姉から今後困るから、、と携帯電話を支給された。
支給された久しぶりの携帯電話は「らくらくフォン」。
父や母と同じもので、操作は簡単(笑)。ただ、本当に便利だった。


ちょうどこの年、中学の同窓会をやろうという話が持ち上がっていた。
地元で中心になって動いてくれている男の子(名前をK君と言っておこう)と、私が個人的に仲良くしていた男の子(こちらはN君)のパイプ役になっていた私は、たまたまのタイミングでK君とも東京にいる時から電話やメールで連絡を取り始めていた頃だった。

しばらくして、K君に連絡を入れた。
「父が病気で今、こっちに帰ってきてるんだ。長くいることになりそうだし、私も時間がありそうだから、飲みに行ったり、お金も必要だから夜のバイトでも始めてみようかな」
父の余命についても言ったかもしれない。うちにインターネットの環境が整っていなかったので、K君に無線LANが使えそうなお店を教えてもらったり、同窓会の話をしたりしていた。
お客様からのメールや肝癌についての情報など、インターネットが使えない状況は本当に不便だった。気兼ねなく無線LANが使えるお店が少なく、家から駅前のマクドナルドまで何度も足を運んだ。父の病院に行く前、行った帰り、幾度となく。
因みに家から駅前のマクドナルドは片道約3km、病院までは片道約5km。


「本当に飲み会、する?」というメールがK君から入ったのは、連絡を入れて数日後だったと思う。その頃の私は既に疲れていた。現実が目の前に突きつけられていて、焦ってもいたし、全く余裕なんてなかった。
そのことをK君に伝えると「良かった、安心したよ。俺、H(私の苗字)がぶっ壊れちゃったんじゃないかと思って心配してたんだよ」と。「自分も父親が倒れた時に、ものすごい不安になって怖かったから、少しは気持ち分かると思っていたのに、バイトするとか飲みに行くとか強気なこと言ってるから、大丈夫かなって思っていたんだ」「あまのじゃくさんには俺のようなあまのじゃくが気が付いてあげなきゃいけないんだって思って」と。
惚れるかと思ったくらい(惚れないけど)、本当に嬉しかった。
いつでも電話してこいと、なにか困ったことがあったらいつでも呼べと、そう言ってくれる人が近くにいることが何より心強かったし、本当に有り難かった。
同郷の友は宝だ。私は本当に人に恵まれている。



重たいノートパソコンを持って、ほぼ毎日、マクドナルドと病院へ行った。
突然のネットショップの休業に、お客様から沢山のメールを頂いていた。
「諸事情につき、しばらくお店をお休みさせていただきます。再開の時期については未定です」と書かれたそれに、多くの方が心配してくださった。その方々に、今起きている事情を1人1人に説明した。温かい言葉の数々に、マクドナルドでも本当によく泣いた。自分が想像していたよりも、沢山の方が私達のショップを見守ってくれ、そして気に掛けてくださっているのだなと、本当に感謝の気持でいっぱいだったし、頑張れ、体に気をつけて、祈ってる、応援してると、今、こうして思い出して書いていても、涙が出るくらい、本当にその当時の私のパワーになっていた多くの気持ち。怖くて、自分の判断に自信がなくて、そういう中で本当に支えてくれたのは沢山の気持ちだった。


その一方で、毎日父の病院では、明るく穏やかに接することが出来た。
病室に入る前には自然と涙は止まった。カチッとスイッチが入ったかのように、スッと平常心の自分を演じることが出来た。声のトーンもいつもよりも少し高く、そして少し明るく。病院食が不味いという父と病室で一緒にご飯を食べた。全く食欲なんてなくて、なんにも食べたくなかったけれど、父にはしっかりご飯を食べて欲しくて「その付け合せのほうれん草、少し頂戴」などと言ってみたり、「あ、これは美味しいね」「これはもうちょっと味がほしいね」なんて話ながら食事を共にした。
足裏のマッサージをしていたら、前のベッドのご夫婦が「お孫さんに足裏をマッサージしてもらえるなんて、幸せですねぇ~」と呑気な事を言って、父はすっかり不機嫌になった(笑)。隣で母は「きっと私のことは娘だと思ってるのかもね」などと、更に呑気なことを言い、全く母には困ったものだ、、、と不機嫌な顔の父をなだめ、早々に病室を後にした。




一方で主治医の先生から今現在の病状の説明を聞く日。
いつまでたっても母が来ない。母も来ると言っていたのに、姉と弟と最初から病院にいた私と。姉が電話をすると母は来ないと言ったらしい。
母は逃げたな、そう思ったが、今の時点では仕方がない。
主治医の説明は私の勉強してきた通りのことだった。それまでに処置してきた経過も、前々回の手術の方法も、そして、前回の手術で手術が出来なかった原因も。何一つ、分からないことがなかったくらい、よく分かった。
姉や弟が理解できなかった部分は、後から私が説明した。
ただ、私が聞きたかったのは今後、何ができるのかということだった。それに対して主治医はやんわりと「薬を飲むことしか、もう出来ることはない」と言った。でもその薬は腹水や逆流性胃炎を抑える薬で、肺に転移しているから、余命はやはり一ヶ月だと繰り返した。

同じような腫瘍マーカーで手術をして、回復した人の症例を見つけていたので、早くその病院で再検査をして欲しいと思っていたが、父の肝癌は母子感染によるB型肝炎から来るものだったので、その点だけが回復した人の症例の人と違っていた。可能性が低くても、何もせずしてこのままなのは嫌だ、そう思って、私はとにかく紹介状を待つことにした。




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