見出し画像

35 桜 (9)


翌日は冷たい雨が降っていた。

父を迎えに朝早くに病院へ行った。
ベッドで寝ている父はとても綺麗にしていただいて、
気持ちよく眠っているようだった。
私は父の寝ている横に立ち、父の顔に触れた。
肌がしっとりしていて、子供みたいに柔らかい髪の毛が可愛かった。
生きているときにはやらなかったこと。
父の頬を触り、頭を撫でるなんて、
こんな時にしかできないなと思いながら。


この緩和病院は礼拝堂があって、最後にみんなでお別れ会をやってくださった。この日いる看護師さんやスタッフさんの多くが参加してくださった。先生が聖書を読んで下さって、最後に賛美歌を歌ってくださった。
中には昨日、帰りがけに明るく声を掛けてくれたMさんという女性看護師さんの姿もあった。とても可愛い彼女が大きな目からいっぱいの涙を流し、父とお別れしてくれた。
「Hさん、よく頑張ったね。お疲れ様」
そう言ったあと、私にもねぎらいの言葉を掛けてくれた。

最初から最後まで、この病院の誰もが優しかった。
温かく、そして心がある。私を救ってくれた。そして父を。
こんなにたくさんの愛で見送ってくれて、
先生を始め、彼、彼女らは大丈夫だろうか。
自分自身が疲れたり、辛くなったりしないのだろうか。
どうか、どうかこの病院の、全ての素晴らしい人達に幸あれ!と
美しい賛美歌を歌いながら、私は祈った。
きっと父もそう思っているだろうと思って。







病院を出て家に向かうと、もうすっかり「恒例の儀式」の始まりだ。
お通夜、お寺さん、葬儀屋さん、あれやこれや。
忙しそうに叔母が仕切って、パキパキと指示をしていく。
こういう作業は苦手だ。

父はまだ66歳で、定年退職後もつい一昨年までは別の関連会社で働いていた。元々NTTに勤めていたので来てくださる方が沢山いて、お葬式も盛大なものとなった。その準備に大忙しだった。

私はただ静かに父を見送りたかった。
盛大なお葬式なんて要らなかった。
誰の挨拶が先で、誰の花がどこにあって、、、
名前は、順番は、、、とかいう、大きな会社の面倒臭いしきたり。
しきたりなのかどうかも、どうでもいいけど。
お葬式のあとのお斎(とき)の席順、誰を呼ぶのか、
その時の挨拶は誰で、、、。
ああ、もうどうでもいい。でも父はそういう社会で働いていた。
そういう会社の一員だった。


私はもうぐったりしていた。
昨日、一日中父の身体を休むことなく擦っていたおかげで、右の腕はパンパンで上がらなかったし、今までのストレスが一気に放出して、口の横には大きな範囲で湿疹が広がっていた。声は枯れ、相変わらず食欲は無いし、頭も重い。全くの役立たずだった。
そんな中、叔母から面倒な仕事を任されそうになった時、
私は何かが弾けてしまった。
「もう嫌、もう無理。もうこれ以上は無理だよ」
自分でもびっくりするくらいの、大袈裟な叫びだった。
叔母はハッとして、姉も弟も「ごめんごめん」と言いながら、
「今日明日はしほちゃんは何もしなくていいよ。ゆっくりした気持ちでいてくれていいから」と言ってくれた。
私(最初から母も)は基本、すべての業務から解放された。
喪主である弟のセカンドポジションとして、弟について行って、お寺さんに挨拶に行ったり、葬儀屋さんとの話を聞いたり、、、という立ち位置に収まった。





翌日のお葬式の日。
その日は北京五輪聖火リレーが長野にやってきて、デモ隊による抗議活動、レースの妨害など、街は大騒ぎだった。

祖父や祖母の時に続いて父の火葬。この場所は何年ぶりだろうか。意外と覚えているものね、、、と不思議な気持ちだった。おかしな言い方だけれど、私はこの場所が嫌いではない。人が骨になる場所。姿かたちが変わる場所。

葬儀場は想像以上に盛大な感じになっていた。父の仕事関係の方が沢山来た。葬儀屋さんはとても分かりやすく、私達がどうすればいいのかを、的確なタイミングで示唆してくれた。全く困ることなく、スムーズに式は進んでいった。
そんな中でK君の姿や、今回の事情を知らせていなかった東京にいる友人が来てくれて驚いた。2人とも私の顔を見ると顔を歪ませ、涙を流してくれていた。自分だったらそうしただろうか。元々あまり〇〇式というものが好きではない私。もし順番が逆だったら、私は彼らの大切な人のお葬式に参列しただろうか?と考えたら、2人には頭が上がらない。

今回、仲の良い友人の数人には連絡を入れていたが、そのうちの2人は電話の向こうで泣いてくれた。1人の女友達なんて、ちょうど電車の中で私からの電話を受けて、次の駅で電車を降りて泣いてしまったくらいだった。皆、情に深いというか、優しすぎる。本当に。


ちょうど5月の連休前だったので、数日経って家まで心配して東京から訪ねて来てくれた友人も数人いた。こんな風に気にして会いに来てくれる人たち。今回の父の死で、本当に友人の有り難さを痛感したし、私はもっと周りの人を大切にしよう、そういう気持ちを形にしよう、行動にしようと思うようになった。
また沢山のネットショップのお客様からの励ましの言葉や贈り物(実家宛にお手紙と一緒に郵送して下さった方がいた。私はこれらをいつもお守りがわりに持ち歩いていた)、そういうものに、どれだけ力をもらっただろう。
もう、私の周りに優しさが溢れていて、いつもいつも普段の自分以上の行動や気持ちで突き進むことが出来たのだと、今も強く思う。
 



私の人生において、とても濃い4月だった。
奇跡のような瞬間も、そして周りのすべての優しさも。
あんなに泣いて、怖くて、もがいて、それでも時に父と笑い、
一緒に食事をし、山桜を共に眺めた。
とても色濃く全てが記憶に残ってる。それらは私の宝だ。
貴重な経験をさせてくれた、私の家族に、そして父に感謝。
本当にありがとう。






・・・・・・

追伸
あまりにも長くなってしまいました。
文章力がなくて、すみません。
これを書いている時、確認したい箇所があって母に電話すると、ちょうど母も父のことを思って、泣いている日でした(笑。この時期はどうしても考えるのだそうです。言わなくても同じなんだなーと思いました)

父の死の話になると、叔母も母も口を揃えて「あの時のしほちゃんはすごかったね、別人だったね」と今でも言います。私も自分でそう思います。本当に不思議な体験でもありました。

母や叔母、そして母の周りの友人たちも、今では口を揃えて「自分も最後はあの緩和病院で迎えたい」と言うようになりました。
本当に私はこの病院の先生や看護師さんに救われました。
自営で仕事をしていると、長い日にち、帰省することもなく、
なかなか機会がないのですが、それでもあの先生がいるうちに一度ボランティアでお手伝いに参加させてもらいたいなと思っています。


最後にこんなに私的な、まとまりのない文章を
読んでいただき、本当にありがとうございました。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?