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35 桜 (6)


退院した父は翌日にはもう、とても辛そうだった。
多少会話もできるし、起きてきて少し一緒にお茶を飲んだりもしたけれど、ほとんどの時間、自分の部屋で寝ていた。
母に聞けば肩がとても痛いと言い出し、夜もなかなか眠れていないようだった。そんな中でも病院から処方された薬は飲み続けた。
薬を飲むとお腹がいっぱいになって、食欲が出ない、、、と父は言った。

もう飲まなくて良いのに。一体、この薬にどんな効果があるというのか。
私が最初に目標にしていた「死に向かう辛さを和らげる」はどこへ行った?そして、今の私に何が出来る?家で父が吐血したり、意識が朦朧としたり、苦しがった時に、母はパニックにならないのか?私は?
とにかく「分からない、分からない」と頭がMAXになっていた。


父の苦しそうな姿をみて、ただただ2階の部屋で震えて泣いた。
こんなとき、どうする?
今からでも父に告げるべきか。もう病院の薬は飲まなくていいよと、まだ間に合うのなら、フコイダンを飲んでくれと。
こんな自分では父の苦しみを和らげることはできないと、私は緩和病院の選択肢を考えていた。それと同時にもう一度主治医のもとに行き、一応カルテや書類などを用意してもらって、相談することにした。


4月22日、「お昼ご飯を食べにおいで」と叔母から電話があった。
叔母の家は実家から徒歩で15分位のところにある。そのすぐ近くに高校があって、私はよく授業をさぼってその家で、祖母とお茶筒を枕にしてお昼寝をしたりしていた。子供の頃から馴染んだ、大好きな家。
私の食欲がいよいよ無くなって、すっかり痩せ始めていたので、料理上手な叔母は私が好きそうなものを少しずつ、いっぱい出してもてなしてくれた。その気持ちが嬉しくて、とにかく勢いをつけて全て残さずにたいらげた。本当に食事が美味しいと思えたのは久しぶりだった。

この後、病院に相談に行く予約が入っていたが、まだ時間があったので一旦家に帰ることにした。
帰り道、昔からとても好きな場所が2ヶ所あって、その1つが公園だった。その日は桜が満開だったので、暫くその公園で桜を眺めた。

とても天気の良い日で、風にはほんの少し春の温かさも入っているが、まだ適度な冷たさもあり、優しく柔い桜のピンク色に染まった風景が、目の前にも、脳内にも広がっていった。
暫くの間、公園のベンチに座り、この後どうするべきかを考えていた。キリキリした緊迫した気持ちではなく、その周りの景色に溶け込むような、とても緩やかな気持ちで。



公園を出てすぐの、坂道を登り始めたとき、一瞬、少し強めの風が吹いた。その瞬間、目の前がパーッとクリアになった。

あまりのその不思議な感覚に、私はそこで自分の360度、全てを確認したくなり、ぐるぐるまわりながらゆっくりと辺りを見渡した。
遠くに見える山に残った雪の白や、芽吹き始めた草花、青い空に浮かぶ白い雲、すべてのものにピントが合うような、そんな感じになった。

この瞬間を私は相変わらず、言葉にできない。
言葉に表そうと何度試みてもどれもこれもがしっくりこない。


でも敢えて表現するならば
「全てのものが私に優しい」だ。


柔らかな日差しも、少し冷えた風も、揺れる草木や花々たちも
皆、私に優しいパワーを送っていた。
なにかエネルギーのような、不思議なものを感じた。
不思議と諦めでも悔やむでもなく、悲しみでもなく、
どこか無のような、それでいて清々しく生々しい感情を抱いた。


今でもこの瞬間を思い出すと、私はとても心地よい。
私は私のやるべきことをやればいい。
ただそれだけだと強く思えた。





主治医だった先生に薬を飲むのが辛いと告げると「じゃあもう、飲まなくてもいいですよ」と簡単に言われた。腹水を抑えるための薬と胃を守るための薬だからと。何種類かの薬が処方されていて、他にもあったはずなのに、その2つしか覚えていないけど、どこか「もうとっくに飲まなくても良かったんですよ」的な感じに聞こえた。

腹が立った。くそったれ!早く言えよ!バカみたいに真面目な父は主治医のお前の言葉を最大限に受け取ってんだよ。そしてその後、これからどうしたらいいかと聞いた私に、相変わらずストレートな言葉はなく、私が「緩和病院も考えている」と言ったら「それも良いかもしれませんね」と柔らかく優しい雰囲気でそう言った。
病院を一歩出てすぐ、本当に悔しくて、悔しくて、泣きながら東京にいる相方に電話を入れた。くそったれ!くそったれ!本当にくそったれ!

病院の近くを流れる川へ行って、散々泣いて、地団駄を踏んだ。今思い出してもまさにその通りなんだけど、病院を出る前から、相方に電話をしながら川へ向かう途中、私は地団駄を踏みながら歩いた。足の裏にジンジンとくるくらいに。


その後、一旦家まで帰って、母に相談した。
もう時間がない。今日も父は苦しんで眠れないだろう。
そして私達はなにもできずに夜を明かすのだろう。
そう思うといても立ってもいられなかった。


「父を緩和病院に入れたい」と母に告げると、母は良い返事をしなかった。「あの病院に入った人は、大体亡くなるから、、、」と。
だって緩和病院なんだよ?そういう病院なんだよ。
私はネットに書かれていたこの緩和病院の理念やポリシーを説明したが、やはり「イメージ」が悪かったらしい。
もういい加減にしてくれ!イメージとか、そういう話じゃないだろう。
時間もないし、話し合っても拉致があかない。
「悪いけど話だけでも聞いてくる」と告げ、勝手に行くことにした。

緩和病院に向かうタクシーの中、私は運転手さんにも聞いてみた。
その緩和病院の評判ってどうですか?と。
母と同じような反応だった。やはりここではこんな感じなのか、、、。
自分に近くない、今まで経験がないものやよく知らないものを全て「イメージ」で判断してるんだな、そう思って苦しくなった。
周りの人から聞いた噂だけが真実だと思っている、
何も知ろうとはしない、価値観を変えようとしない人達。


それでも私は自分を信じることにした。
ただただ苦しんでいる父になにもできない自分が嫌だった。
夕方、病院に着いて、電話で話をしていた婦長さんに会った。
病院内を案内してくれて、休憩室のようなところで対面に座って話をした。
今時点の状況を婦長さんに伝える段階で、私は歯がガチガチ鳴って、震えと涙が止まらなかった。温かい優しい雰囲気の婦長さんは、いつまでもゆっくりと私の話を聞いてくれた。
今の段階でどうしていいのか分からないこと。
父は今も苦しんでいること。
初めてのことばかりで、自分の判断に自信がなくて怖いこと。
婦長さんに話を聞いてもらえただけで、とても気持ちが楽になった。


診察の時間が終わって、先生と話せるということで、診察室へと案内された。扉を開けると俳優の生瀬勝久さん似の、彼をもうちょっとインチキな感じ(言葉が悪くてすみません)にしたような、そんな感じの先生がいた。
前の病院でカルテなどを貰ってきていたので、それらは先に受付で渡していた。それを診た上でまず最初の第一声が「よくここまで頑張ってきましたね」という言葉だった。

私は再び泣いた。はじめて許されたというか、認めてもらえたというか、そんな気持ちになって、安堵というか、救われた気持ちになった。
大声で泣いて、嗚咽が止まらなかった。
婦長さんは私の背中をずっと優しく擦ってくれた。

父が苦しんでいて、眠れなくて辛そうなので、なんとかしてあげたいというと、先生は「この後の診察が終わったら、往診に行くよ」と行ってくださった。「夜9時くらいになっちゃうけど、大丈夫かな」と。
え?そんな遅い時間でも来てくれるの?そんな病院、あるんですか?
神にでも会ったのか、と思うくらい嬉しかった。また涙が出た。
住所や私の連絡先を伝えて、私は病院から歩き出した。





病院を出た後、ものすごい勢いで開放された気持ちのような、
強い味方を得たような、そんな気持ちになった。
その気持ちがものすごく大きくなって、胸が苦しくなった。
ちょっと過呼吸のような感じになって、咽ぶように泣きながら歩いていた。
ちょうど市役所の前辺りで、もう立っていられなくなってしまって、しゃがみこんで子供みたいにワンワン泣いた。
私のいっぱいいっぱいが破裂したんだなと、自分でも感じた。
足が動かなくて、膝がガクガクしていた。
もう少し泣いたら、きっと歩けるようになるから、どうか周りの他人様、放っておいてください。と思いながら、暫くの間、そこで泣いていた。
案外、こんなに泣いている大人がいても、周りの他人様は声を掛けるでもなく、近寄ることもなく、普通に通り過ぎていくんだなと、そんなことを思っていた。


タクシーを捕まえることはできずに、バス停まで歩こうとゆっくりゆっくり歩いた。途中のイトーヨーカ堂の前のベンチで休憩をしよう。そこまで歩いて、もし限界だったらK君に電話をしよう。そう思って、なんとかそのベンチまでを目標に歩いた。きっとK君なら迎えに来てくれる。私の今日の話をしたら、きっと褒めてくれる。そう思ってやっとベンチに着いて、そこで暫く休んだ。

K君はこの間にも、本当にこまめにメールをくれた。それも私の気持ちを救い上げるかのような、日常的なこと、同級生の誰々は見つかったとか、○○君に連絡がつきそうだという、近況報告と、そして最後に一言、頑張れ!と。
K君なら来てくれる、、、そう思ったら、ちょっと元気になれて、また自分の足で歩き始めることができた。そんな風に思える存在として、私を見守っていてくれている人が近くにいるという安心感と勇気で、気持ちが変わることの凄さを感じながら、本当にK君に感謝した。





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