『善き人』感想 Goodを求めたその先に

ナショナルシアターライブで公開されている『善き人』を見てきた。C・P・テイラー作 。ドミニク・クック演出。出演は、デヴィッド・テナント、エリオット・リーヴィー、シャロン・スモール。幕間には、日本ではあまり知られていない、この劇作家を紹介する短いドキュメンタリーも流れる。

ナショナルシアターライブ作品はこれが初鑑賞となるわたし。わくわくしながらTOHOシネマズ日本橋に向かったが、劇場は満員御礼の状態だった。ぱっと見渡した感じだと老若男女がつめかけており、世代を越えて、幅広く関心を持たれている劇のようだ。

舞台はナチスが台頭する30〜40年にかけてのドイツ。大学で文学を教えつつ、自身も小説を執筆してそれなりに認められている教授ハルター。仕事が終わっても、認知症や目の病を患う母親の面倒を見たり、家事が一切できないヘレンの代わって料理や掃除もする。台詞から子供も3人いるようだが、劇には登場しない。また、ちょっと口の悪いユダヤ人医師の親友がいる。ある日、自身の書いた安楽死がテーマの小説がナチの目に触れ評価されたことで、少しずつだがナチスから重要な仕事を任されるようになる。そこに若い女性の愛人も入り込んできて、彼の人生は一遍してしまう。

舞台は、あるシーンを除けば、どこか無機質で牢獄を思わせる一室から全く動かない。その一室でハルターやその周囲の人々がたどる奇妙な人生が描かれる。それが例え家だろうと大学だろうと公園だろうと緑あふれる森の別荘だろうと、である。視覚情報をことごとく排したラースフォントリアーの怪作である『ドッグ・ヴィル』や『マンダレイ』を思わせる演出だ。また、衣替えも1度しか行われず、3人の主演俳優は、基本スーツやシャツといったトラッドな服装のままである。エリオット・リーヴィーとシャロン・スモールが複数の登場人物を演ずるのだが、彼らが演ずる人々は、世代や年齢がバラバラ。その演技の様子は、まるで霊に憑依されたイタコのようだ。しかも突然スイッチが切り変わるように、別の登場人物が出てきたりするので、相当な唐突さを覚える。いずれにせよ、観客は色んなものを想像力で補いながら観劇する必要がありそう。

ハルターは、次々と邪魔で面倒なものを、自身の人生から排除していく。ケアが必要な母を、ろくに家事もせずピアノばかり弾いている「悪い妻」を、そして、迫害の手が迫るユダヤ人の友人も、あの手この手で面倒なことに対して見捨てて三行半をつきつける。彼自身の手を汚すことなく、「これでいいんだ」という自己弁護を自分に言い聞かせながら。若くて綺麗な妻と、ユダヤ人から接収したと思われる豪邸、そしてナチでのキャリアを手に入れ、成功者にのしあがる。

目の前で行われている虐殺に関しても、ハルターによるこの手の詭弁は留まることを知らない。それどころかおぞましいのは、あの水晶の夜事件を前にして、ともにその惨劇を眺めるしかないたユダヤ人医師の前で、「この事態を引き起こしたのは、国外に退去しなかったユダヤ人自身にある」というあまりに浅はかな自己責任論をぶってみせる点だ。ハルターはそれ以前、国外逃亡用の旅券の取得を求める彼に対し「どうせヒトラーなんてすぐ失脚するさ」と、何の根拠もない楽観論を言いのけて、断っている。万が一ユダヤ人のために旅券を用意したことがばれたら彼の人生は最後だからだ。言っていることが次々と変わり、のらりくらりと事態から逃げようとする。助けを求める人たちから目を背けようとする。それは、社会の強者のみが持ちうる、被差別階級に属する者だけが使えるやり方だ。最終的には、弱いとされる人々の自己責任論に話をもっていく。自分の手を汚さず、罪悪感も抱かずにすむ利口なやり方である。

原題は『Good』。ハルターをはじめ、登場人物は常にGoodを連呼する。私は善い夫だ、善い妻なの、善い人間なんだ、といった具合に。考えて見てほしいが、普通善良な人間は、「私は善い人なの」なんて言わないものだ。それは悪事を見て見ぬふりする人間特有の心理だ。それを認める勇気すらない人間によって、時代を問わず行われる自己弁護に他ならないのである。ナチスドイツを描く芝居にも関わらず、普遍性を有した物語に仕上がっているように感じた。手垢のついた表現だが、これは私達のことを描いたお話なのだ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?