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Twitterには書き入れない想いと文字数

幸福とは何か、どうしたら人は幸せになるのか。人間とは何なのか。

そんなことに答えはないのかもしれないが、僕はずっと考えている。


今回はテクノロジーの発展が!とか、シンギュラリティーが!ではなくただ想いを吐露する。

パスカルは「人間は考える葦」といい、ジャックドーシーは意見を140字に制限したが、これから始まるまとまりのない文書を、それはそれで人間らしいと思いながら読んで欲しい。


最近、北欧の幸福の作り方とかをネットで見ていた。

もちろん教育がとか環境がとかもあるが、今日話したいのは「人間らしさとは何なのか」だ。

人との繋がり満足のバランスという二つの課題感を話したい。


「あなたは輝いている。でも孤独なまま。」

よくコミュニティ論で、孤立していないが孤独を感じている人がたくさんいるという話になる。

人は他者に認知されることによってはじめて人間になれるというが、本当に誰かに認知されているのかと不安を抱えている人が多い気がする。

大学1年生では浅い関係の友達(通称:よっ友)が広がっていくが、本当に深い関係の友達がいるのかと。社会でも同じだ。

そして次に圧倒的承認を求めてSNSでいいねの数稼ぎが始まる。

○○さんがあなたの写真に「いいね!」しました

という通知で承認欲求が満たされる。(You are fancy "in there")

しかし、時々本当に繋がっているのかと不安になる。(But still alone)

この画像はそんな現代社会をただ揶揄しているようにも思うが、改めて繋がりって何なのだろうと考えさせられる。


一方でヨーロッパ都市では1980年頃から都市の中心部において大胆に自動車交通を抑制し、歩行者が楽しめる空間を作っていったらしい。

そうすることで「歩いて楽しむ」ことができる街づくりをし、ゆるやかなコミュニティ的なつながりが出来る街になっていった。

街を歩くをデザインするというのはコミュニティのヒントかもしれない。

なのでバーチャルを飛び出して現実社会のインターネット(干渉する網)を作ることが、繋がりを感じられる幸福感を生み出せるのではないかとも思っている。

そんな時に誰かは言う「だったら便利を無くしてアナログに移行するべきなのか」論を


ここに次の課題がある。

それがテクノロジーは人々を幸福にするための手段であっても、人はiPhone 2000を体験するまでは満足できないという事。

人は何でもすぐに慣れてしまう

Well-beingの研究をしている石川善樹さんは「不幸の最大要因は習慣だ」と言っていた。

「"便利"に慣れて満足できない。」

それを考えたときに、どれだけテクノロジーが発展してどれだけ世の中が便利になっても人はそれに慣れて、今まで気にならなかったことにストレス(不便)を感じるようになる。

生まれてくる子供の65%は今ない職業に就くと言われているのもそういうことだろう。

ホセムヒカの言葉を借りると、貧困とはいくらあっても満足できないことで、そういった意味で僕たちはますます貧困になっている。

このサイクルに終わりはあるのだろうか?


とはいえ、「今からすべてに満足しましょう!煩悩を捨ててシニカルになりましょう!」というのに感覚的に嫌悪感を感じるのは理解してるし、自分もそれは難しいかなと思う。

僕がアメリカから返ってきた当時は、誰よりも冷笑的になり、生きてるだけで幸せと思っていた。

聞こえはいいかもしれないが、実際は人間としての感情(欲望や怒り)を捨てたロボットみたいだった。

なのでダサさとか脆弱性も人間らしくていいと今だから思う。

大切なのはバランスであって、便利に慣れすぎるのも不幸だと考えておくぐらいがちょうどいい。


僕の中で結論はなく、幸福感も相対的なので答えがないという事が逆に結論なのだろう。(冒頭でも言ってた気が、、)

僕たちが人間であり、人間というものが何なのかまだはっきりしていない中でそこを解くのは難しく、探索し続けることが本質なのかもしれない。

なのでこれからもRutenを通じてどうしたら持続可能な形で幸せな人が増えるのかを探索し続けたい。

貴重な時間を使って読んでいただけるだけで嬉しいです!!ありがとうございます!