気遣いと気を遣うの違いについて考えてみた

自分が考えるに、できる編集者ほど作家への気遣いを忘れないと思う。限られた時間の中で原稿を描き、試行錯誤を繰り返して誰かを感動させるような作品を作り上げる。それは誰もが出来るようなことではないし、ただひたすら毎日机に向かい続けて積み重ねた経験と忍耐力の賜物だろう。

編集者は、常に作家のそばにいる身としてそれをよく理解していることが求められるし、その努力の偉大さをリスペクトしていないと務まらない。自分の知る優れた編集者は、みんな作家への気遣いを忘れない人たちだ。

ここで、自分がこの間考えたことを絡めて考えてみたい。それは、「気遣い」と「気を遣う」の違いだ。

どちらも言葉の意味的にはほぼ同じである。だけど、この二つの言葉には、やはり違いがあるように感じている。

自分としては、この二つの違いは「思いの向かう先」にあるのではないかと考えた。

つまり、「気遣い」は相手を思ってする行為である一方、「気を遣う」は自分を思ってする行為であるということである。

たとえば、友達が失恋してひどく落ち込んでることがあるとする。そんな友達を見て、励まして元気になってもらいたいと、ご飯や飲みに誘うことや、あえて何もしないでそっとしておくという行為は、「気遣い」といえると考える。

一方、たとえばその友達がものすごく情緒不安定になっていて、下手な声かけをして怒鳴られたり泣かれたりするような状況ならば、気を遣って距離を取るのではないかと考える。

別の例で言えば、仕事関係の飲み会でのお酌や、サラダの取り分けなんかも該当する。これも気遣いというより、気を遣うという言葉が該当しやすいだろう。

相手への愛や思いやりで動く行為が「気遣い」で、自分の保護あるいはそれをしないことで降りかかる可能性がある不利益の回避を目的とするのが「気を遣う」。

自己満足とも言うべき行き過ぎた気遣いもあるし、相手を思った気を遣うということもあるだろうけど、世の中の大体はそうなのではないかと考える。

こうすると、気遣いがいかに相手を観察しなければ出来ないことなのかが想像出来た。
だから、優れた編集者はきっと作家に対して想像と観察をし続けている人なのだと思う。

自分も作家に対する気遣いがしっかりと出来るように、相手に対する想像と観察を忘れないようにしたい。

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