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異国の客であること

先日個展がオープンし、2月、6月、8月の個展のための制作が一旦落ち着いた。また11月に小さい場所で個展はあるが、オープンしたばかりで今はようやく肩の力が抜けている。売ってくれるかどうかは、後はギャラリーの仕事だ。

今回は自分の限界を感じながらの制作だった。諦めていた、と言ってもいいかもしれない。たくさん作ることはきっと良いことだ。作れば作るほどアイデアも湧くし、作品は精錬されていく。でも根本の、思考の部分がついていっていないことをヒシヒシと自覚していた。自分の思考を深めないと、ただなんとなく美しいものを作り続けるだけの人になってしまう。

オープンしてほっとしている。ようやく少し、焦らなくてよい時間ができた。今まさに、自分の輪郭を広げ深めるときだと思う。
本を読もうと思い、書棚を見る。アートについて学ぶべき本は家にたくさん積んであるのだけれど。。一旦、そこから離れて違う視野で身体を満たしたかった。手に取ったのは池澤夏樹の「異国の客」。薄い文庫なので、まずすぐ読めるのでは、と思い、小説かエッセイかもわからずに読み始めた。

それはエッセイだった。池澤夏樹が、2004年、家族と共にフランスのパリ郊外の町に移住した話。移住して感じる様々な発見や異国出身だから気づく文化の違い、世界の出来事や人間について考えたこと。日々の小さな発見を楽しみ、それを新鮮に感じ、その小さな発見は著者の経験と博識が加味されて世界で起こっていることへの観点につながる。それらが穏やかな文章で美しいフランスの街並みを想像させながら綴られていく。

読み始めてまず思ったことが、同じく異国に移住して、私がずいぶん感性を閉じて生きていたということだ。始めは全てが新鮮だった。でも疑問に思ったことなどを、一つ一つ調べ質問し(言葉の壁もある)自分の考えを形作るという行為を、キリがなくて途中で放棄していった。同じように、道を歩いて視界に入る小さな取っ掛かりや、会話の中で引っかかったこと、いちいち気に留めていたら日常が進んでいかないので、無視する癖がつき、そして必要なことだけを意識して暮らす日常が出来上がった。

noteを始めようと思ったのは、感性をもう一度開き、言葉にし、思考を深める練習になると思ったからだ。私もフィリピンに住んでから、池澤夏樹のように文化や言葉について考えたことは何度もあったはずだった。それを忘れ生きていくのは、きっと勿体ないことだ。そして単純に、池澤夏樹のように、世界と日常を穏やかに、優しく、かつ興味深く見て、それを言葉で書いてみたいと思ったのもある。

世の中は俗に満ちていて、それは強烈な美味と毒をもたらしている。美しいものもある。私は流されやすく、きっと大抵の人も流されやすい。怒らないことと怒ること。
文章で綴ることで、自分自身の感性や思考を取り戻していけたらよいと思う。私は悩みやすく自信を失いやすい人間だけれど、ここでは病んだことは一旦空気に混ぜておいて、日々の小さな感動を、このnoteでは綴っていきたい。

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