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小説と視覚芸術

ー大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。ー

「異国の客」以来、池澤夏樹の本をいくつか読もうとしている。そして今日、小説「スティル・ライフ」を読んだ。88年初版発行、芥川賞を受賞している。

読後感は、なんというか、現代アートの大きなインスタレーションを体験した後の感覚に似ている。池澤夏樹は、視覚芸術にも造詣が深い。造詣も深いのだろうし、彼の感覚や表現方法は視覚芸術家のそれに近い気がしている。
「異国の客」でも、クリスチャン・ボルタンスキーや、ジョルジュ・デ・ラトゥールの絵画についての表記があった。 そして正確な眼差しで、それらの芸術について綴っていた。

スティル・ライフは、中の物語ではなく、物語も含めたスティル・ライフというもの自体が視覚芸術のようだ。とても抽象的な作品だと思う。はっきりとした言葉で、迷いのない明確な文章であるにもかかわらず、全体としては抽象的なのだ。

ある意味、全ての小説家は視覚芸術家的な一面を持っている。言葉を連ねることで物語を紡ぎ、読書は勝手に頭の中でドラマや映画のような画面を描いて小説を読む。小説家は視覚的に表現はしないが、言葉の羅列によって視覚のギリギリまで表現している。
そして、小説家の文体によって、油絵や水彩画や、はたまたモノクロの細密画か、可愛らしいイラストなのか、アニメだったり、実写だったり、ある程度イメージができたりする。
スティル・ライフのイメージは、宇宙や空気や星を扱った、大きな現代アートに近い。
科学的な小さな話が散りばめられている、というのもある。例えば、バーで水のグラスに微粒子が降ってきて光るのを待つ、という話など。でもそれだけではなく、主人公が雪が降るのを見て感じた感覚、小説の骨格ともいえる人物、佐々井が唯一、どこで生きるにも持っていく写真とその味わい方。
それらはとても現代アート的なアプローチだと思うし、佐々井の写真の楽しみ方は、そっくりそのまま世界のどこかの現代アーティストがやっていてもおかしくない。
主人公が雪が降るのを見て感じた感覚は、読者に、もしくは鑑賞者に、今まですぐ近くにありながらも、大抵の人は考えたことがなかった、世界の新しい知覚の方法を提示している。それはとても新鮮で、やはり現代アート的なアプローチだと思う。

ー雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。静かに、滑らかに、着実に、世界は上昇を続けていたー

物語は「ぼく」と「佐々井」の交流を中心に描かれる。小説を最後まで読んだときに、佐々井のイメージは星の王子さまと重なった。もしくは、銀河鉄道の夜の、カムパネルラ。池澤夏樹はもしかして、この二つから影響を受けているのかもしれないが、立ち現われたスティル・ライフという芸術は、そういうことも包括した上で、大掛かりなインスタレーションであると思わせる。

そこで思う。著者はなぜ、スティル・ライフというタイトルにしたのだろうか。スティル・ライフとは、静物画のことだ。テーブルに置かれた果物や花瓶を描いた静物画。静物画というと、モランディを思い浮かべる。モランディの、とても静かな、日常なのにどこか非日常的な絵画。この小説のイメージとは、確かにあっている。
モランディが浮かんだので、もう少しネットでモランディについて検索してみた。生前のこんな発言が残っていた。

「私たちは物を見るときにその物の概念を持ちながら見ている。たとえば、コップを見るときは『これはコップである』という概念を持ってながめている。もし、コップから『コップ』という概念を剥ぎ取ってしまえば、それは抽象的で非現実的なものとなる」

なるほど、確かにこの小説と、よりイメージが合致した。
雪、山、星、世界、金、日常、そして佐々井。小説全体を通して、それぞれの要素が概念から始まり、概念が剥がされる。それ故にこの小説は、抽象的なのか。改めて感心した。

ますます、とても巧みな、巧妙な、現代アートのような作品。
30年前に書かれたものであっても、全く色褪せない。現代でないことは確かだが、小説の中に時代を感じさせるような具体物が出てこない、もしくは出てきても主張していない。だからこそ時代感に引っ張られずに、純粋に視覚的に読める。その辺りは村上春樹の小説もそうだ。

ここまで一つの小説を掘ってみたからこそ、最後に、文庫版の装丁と裏表紙のあらすじの違和感について。。
装丁は、無難な壁紙、という感じ。小説を読んだイメージとは掛け離れているし、スティルライフでもない。物語を絵にしたものでもない。。なぜこの装丁にしたのか疑問だけれど、装丁からは予想もできない内容というのも、良いのかもしれない?最初に出版されたハードカバーの方は、水色の無地で、そちらの方が小説のイメージに合っている。
また、あらすじでは、やはりたくさん違和感が。「ぼく」は佐々井に魅了されてはいただろうけれど、科学的な話に「熱中」はしていないし、これは別に青春小説でもないと思う。科学的な話には、熱中どころか、そんなもんかね、というスタンスで主人公は聴いている。「熱中」や「青春」という言葉を使ってしまうと、なんだか急に安っぽい汗臭い感じになってしまう。ドラえもん的な「青春科学小説」を求めて読んだ人は、そこに横たわる芸術性に気付かずに、面白くない、と評価してしまうのではないだろうか。。
なんて、30年も前に出版された本に対して考えた。


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