ドラえもんミュージアムは小田急の陰謀か?——生活の脱力感と詩的反抗

小田急線の登戸駅は、藤子・F・不二雄ミュージアムへの窓口となる駅であり、あちこちにドラえもんの世界をモチーフにした装飾が施されている。駅名が書いてあるプレートはドラえもんの鈴になっているし、階段の壁にはタケコプターで空を飛ぶのび太やジャイアンが描いてあって乗客をプラットホームへと手招きする。また、電車が来たり発車したりするときのメロディがF先生のアニメ作品の主題歌になっている。(近隣の向ヶ丘遊園駅や宿河原駅もメロディがF作品にちなんでいる。)しかも、改札の前にはそれなりに大きなドラえもんが立っている。雰囲気づくりが徹底されているので、電車を降りると、街全体がドラえもんの世界のような気がしてくる。

ではF先生と登戸エリアにはどのようなつながりがあるのかと調べていくと、結構微妙である。まず、F先生は高岡の出身なので、青年時代には登戸エリアと何の縁もない。トキワ荘を1961年に出て移住した先は確かに川崎市多摩区である。A先生と二人で一つの土地を買い、真っ二つに分けてそれぞれに家を建てて住んだという伝説がある。ところが二人が住んだのは多摩区の中でも多摩丘陵の方に入った東生田駅(現在の生田駅)周辺であり、ミュージアムの所在地とはそれなりに隔たりがある。しかもドラえもんの舞台は練馬である。つまり、ミュージアムは、F先生のふるさとから遠く離れた、大人になってから長いこと住んだ場所、さらにそこからちょっと離れたところに建てられ、だいぶ離れた街が舞台のドラえもんを主たるモチーフにしている、ということになる。登戸とドラえもんは、実はかなり縁が薄い。

ところが、実際に登戸駅にしばらくいてみると、思ったより嫌な感じはしない。少なくとも、「ドラえもんと登戸の結びつきは完全にフェイクで、これは小田急の陰謀だ」とかは全然思わない。それはなぜか?

ドラえもんの世界は1970〜90年代の暮らしを基本的な舞台にしている。都心の不動産価格の高騰を伴いながら、東京が外側にぐんぐん広がっていった時期である。F作品には悪徳不動産屋のモチーフがくりかえし登場するし、のび助が住み替えのために「会社まで2時間かかる、ちょっとした雨で水びたし」の土地を見学に行く回もドラえもんにはある。「新しい子どもたち」を迎える受け皿として、川崎、練馬、ほかにもたくさんの町が急速に都市化した。その意味で、川崎と練馬には、同時代的な可換性がある。のび太は1962年生まれ。リアルタイムでの読者層は、のび太と同い年をおおよその上限、F先生が亡くなった1996年時点での小学生を下限とすれば、昭和40・50年代生まれにほぼすっぽりとおさまる。一番人口が多い。バブルがはじける前に就職が間に合ったかどうかで分断はあるが、いずれにしても日本のボリュームゾーンと言っていいかもしれない。ドラえもんが描いた世界を典型的な暮らしだと思う層はとても分厚い。都市の膨張に伴う衛星都市の均質化と、世代の膨張が同時に起こる。だから川崎にのび太がいてもおかしくないのである。それは練馬ののび太と異なりながら、至るところ同じである。そのアクチュアリティは、高岡ではなく川崎にミュージアムを設けたことで初めて見えてくるものだっただろう。徹底的に互換可能であることに現実が宿るこのあり方が、登戸駅をブランディングする手口に嫌悪感を抱かない一つの理由である。

ある意味でドラえもんは匿名的で平均的な郊外の生活を前提にしている。平均的生活がもたらす脱力感、ある種の虚無感は、詩的反抗に接続することがありうる。ロマンスカーを由来としているであろうBRON-Kの名曲「ROMANTIK CITY」に描かれる登戸。それはドラえもんミュージアムがある街の、もうひとつ別の描かれ方である。BAD HOPと小沢健二がともに川崎にルーツを持っていることに注目せよ。

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