覚えたての言葉を——余韻と愛と引用

通りをバスが行き交う 覚えたての言葉をしきりに連発

スチャダラパー(1995年)「ULTIMATE BREAKFAST & BEATS」

国道沿いのやるせない風景 挫けそうになる揺るぎないシステム

スチャダラパー・STUTS「Pointless 5 feat. PUNPEE」(2024年)

「ULTIMATE BREAKFAST & BEATS」の一節が新曲「Pointless 5」で引用されたことには驚いたが、たしかに二つの曲はともに「なれのはて」を描写している。そして、「大通り」のイメージが、30年越しに繰り返される。

「Pointless 5」は執念と諦念の二重性を表現する。執念とはすなわち、もう慣れきってしまった「どこにも行けない」ということやそれがもたらす安心感に抗って、ここではないどこかへ向かおうとする強さである。あるいは、「出口のなさや安心感に抗ってどこかへ向かうこと」それ自体にすら慣れてしまって、それでもなにかやろうとする祈るような試みとまで言える。諦念とは、そのような試みからはつまるところ「余韻」しか生じず、一回性はとうに終了しているということの途方もなさである。

「ぶぎ・ばく・べいべー」で小沢健二が「ロマンチックなのは変わらない」と(わりと無防備に)反復しているのに対し、「サンプリングスポーツ愛と引用 ロマンスの神様にありがとう」と歌うラップパートは、広瀬香美やら誰やらの引用を連発しながら「ロマンス」を「ジャンルや形式への愛をもって引用すること」の域まで拡張する。あるものを不変だとみなして反復することと、引用して余韻を味わうことのあいだには違いがある。「あれもこれも経てまた集まって」とあるが、小沢健二との新曲と対を成すような部分がある。「生活の力」を強調する近年の小沢健二の試みはそれはそれで価値がある。一方、生活が持つ行為性が強いあまりに、「自分の食卓」が排他性を帯びてしまうこともあるのではないか。対して「Pointless 5」は生活の輝かしくない無意味な面を表現している。その無意味さは曲を聴く人に力を強く送る。

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